就職、結婚、子どもの誕生、引っ越しなど、ライフステージの変化はどんな人にもさまざまなタイミングで訪れるものです。そんなとき、より良い方向へ働き方や暮らしを柔軟に変える人が、今注目を集めています。
自分の理想のため、または家族のためなど理由はそれぞれですが、大切なものを守るため、一つの働き方に固執せずに新しい場所、仕事を選択した女性にインタビュー。
第2回目は放送作家から映像制作プロデューサーへ。その後結婚、出産を経て、子育てに重点をシフトさせた働き方をしながらも、仕事を縮小させるわけではなく、新しい仕事を作り出すバイタリティをお持ちの方をご紹介します。

市川マミさん
1995 年にフリーの放送作家として活動開始。その後、バラエティ・音楽・情報・スポーツなど様々なジャンルのテレビ番組制作に携わる傍ら、Vシネマの脚本、雑誌コラム連載、劇団の演出助手・制作全般、イベント企画・脚本などを手がける。
2005年、有限会社一億円プロジェクト取締役社長に就任。以降、DVD 制作では、プロデューサー、制作統括として活躍。2008年4月、株式会社クルーザーを設立し、映像クリエイター古屋雄作の作品の制作・プロデュースを手がける。

「頼まれたらとりあえず引き受ける」で仕事を引き寄せる

放送作家としての原点は、さんまさんの笑い

――まず、放送作家を志すようになったきっかけはどんなことだったのでしょう?

子どもの頃は弟と一緒にバラエティ番組を見るのが好きでした。
中でも「オレたちひょうきん族」のさんまさんが大好きでした。

というのも、当時は両親のケンカなど色々な家庭内事情が勃発していて……。でも、そんなとき弟と「ひょうきん族」をはじめ、さんまさんのバラエティ番組を観ていると、そんなことも気にならないほど爆笑していて。面白くて楽しい時間が流れていたんです。今振り返ってもバラエティ番組に救われたと思うほどです。

――バラエティ番組への憧れや感謝のような気持ちが結びついて強い動機になっていったのですね。
放送作家という職業について、名前は知っていても「なり方」はわからないという方は多いかと思います。市川さんの場合はどのようにキャリアをスタートされたのですか?

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次第にテレビの世界、特にバラエティ番組の裏側で番組を作る側になりたいと思うようになり、日本テレビエンタープライズ(現・日テレ学院)主催の「放送作家セミナー」に通い、1994年有限会社オフィスぼくらに所属させてもらえることになり、放送作家になりました。

それから1年後にはフリーになりました。バラエティ番組のネタ出しや企画書作成を始め、スポーツ番組でNBAの企画を任されれば、たとえNBAについての知識がなかったとしても頼まれたら何でもやるようにしていました。そこで信頼を少しずつ積み重ね、次へ仕事をつなげていきました。

やってみよう!の精神で社長に就任。

――その後、一企業の社長にも就かれますよね。
珍しいキャリアパスに思えますが、どのような経緯で実現されたのでしょうか?

もともとは、以前から活動に興味があった水野敬也さんの講演会に行き、名刺交換をしたことがきっかけで水野さんの会社である有限会社一億円プロジェクトを手伝っていたんです。
しばらくすると水野さんから「僕は経営に向いていないので、社長になってください」と言われたんです。もちろん自分でも社長に向いているとは思っていませんでしたが、頼まれたらとりあえずやってみる性分なので、その時も引き受けました。

そこで水野さんの仕事を手伝っているときに知り合ったのが、映像クリエイターであり、夫の古屋(編集部注:脚本家、演出家、映像ディレクター・古屋雄作氏)だった<んです。

水野さんと古屋は高校の同級生。そんな流れで、古屋が友人と貯金をはたいて自主制作していた「スカイフィッシュの捕まえ方」の手伝いを頼まれることになったんです。今まで放送作家はしていたものの、実際に制作の現場に立つことはなかったので戸惑いはありました。
その流れで「スカイフィッシュの捕まえ方〜サイエンスジャーニー編〜」では、本格的に制作兼AD兼プロデューサーを請け負うことになりました。

――初めての番組制作の現場でどんなことを感じられましたか?

ただでさえ勝手のわからない制作の現場。
監督の古屋が求めているイメージを共有する。イチから台本に書かれているものを準備する。しかもニュージーランドでロケハンや取材交渉などを行わなくてはならず、そのときは本当に苦労しました。と同時に、「今まで放送作家をしてきたけど、ほんとにほんの一部だったんだ!制作ってこんなに大変なんだ」と痛感しました。

ですが、それをきっかけに次の作品にも関わるようになりました。引き続き、制作兼AD兼プロデューサーという何でも屋の役割で…(笑)。「人の怒らせ方シリーズ」の大ヒットもあって、それ以降立て続けに作品を制作するようになっていきました。

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――映像が作品として成立するまでの過程を一緒に乗り越えてこられたのですね。

そんなこともあり、2008年、一億円プロジェクトから独立し、映像・企画制作会社として株式会社クルーザーを設立しました。それからは古屋の映像作品の企画・プロデューサーとして、企画を実現させるために動くことが仕事のメインになっていきました。

いつでも仕事状態の結婚から、180度変わった仕事観

結婚・出産を経てはじめて見えた、映像業界の特性

――古屋さんとご結婚される前と後で、映像をつくる仲間としての関係性は変わっていきましたか?

古屋とは2010年に結婚しました。それからは仕事も一緒、住むところも一緒になったので、四六時中ブレストをしているような環境になりました。

でも家族になったことによって、たとえば「予算これだけしかないけど、どうしよう?なんかいいアイデアないかな?」など、お金まわりのことも相談しやすくなり、お互いさらに遠慮なく言いたいことが言えるようになったので、仕事は一層うまく回っていきました。

――クリエイター×クリエイターの理想の関係性と感じます。

そんな中妊娠が分かり、2012年10月に女の子を出産しました。39歳10カ月のときです。
それまでは仕事ばかりしていましたし、結婚ですら意外なことだったので、出産をするなんて考えてもみなかったのですが、授かってみると自分にはこんなにも母性があるのかと驚くほど幸せに満ち溢れた毎日でした。

娘との旅行に、弟の子どもたちを一緒に連れて行くのがお気に入り。子どもながらにそれぞれ立場や役割を考えて動いてくれるので、引率人数が多くてもとても楽しくリラックスできる

産後の生活はとても充実していて、あんなに働くことが好きだったのに2年くらいは何もしなくてもいいかなと思うほどでした。

――これまでの精力的な仕事ぶりをお伺いしていると、意外な気がします。

ですが、知り合いに急きょ期間限定で仕事を相談されました。
子供がいるので環境的にかなり難しいなとお断りしようと思ったのですが、無理のない範囲内でかまわないのでという言葉を頂いたので、産後3カ月から週3くらいで仕事を再開させました。
会議の時は、家から一番近い距離にあった無認可の保育ママに預けることにしました。でも会議以外の業務ももちろんあり、それで足りないときは両家の両親や友人にもヘルプで助けてもらったりして、いろいろな人に頼って仕事と子育てを両立させたところで、半年間の仕事が終了しました。

――実際にお仕事をされてみて新たに感じることはありましたか?

はい。それまではずっと子育てだけしていたいと思っていましたが、仕事があれば気持ち的にありがたいと思うこともありました。それでこのままこのくらいのペースで仕事を続けられたらと思うようになっていました。

そこで出産前の仕事を少しずつ再開させようと動き始めてみました。

すると私の復帰を待っていてくれて仕事をくださる方もいたのですが、テレビの仕事は夕方以降の時間帯の会議も多く、急遽、土日に分科会が入ったりもする。でも、イチ放送作家の立場では時間の決定権がないから、合わせるしかない。今までと同じように仕事をすることは物理的にできないことを再確認したんです。そこで初めて仕事を断ることを経験しました。そのときは、子育てをする充実感に反して、なかなか思うようなスケジューリングでは仕事に戻れない、という現実を実感していました。

今までの仕事ができなければ、新たな視点で仕事を作り出す

「私から仕掛けていこう。」

そんなとき、「自分は40歳になって出産し、そのような思いを初めて感じたけれど、きっと今まで私と同じような気持ちをたくさんの人が感じ、同じように仕事を諦めてきたのではないか。でも、主婦の方でもクリエイティブなことをやりたい人、作り手側にまわりたい人は多いのではないか」と思ったんです。それが、女性向けの映像クリエイタースクール「ラブストーリー・クリエイター・スクール」だったんです。

これまでずっと誰かのサポートをする仕事に就いてきました。それが今回は生まれて初めて、自分が矢面に立つ経験をしてみようと、立場を変えてみたんです。映像でいうところの「監督」の気持ちを少しでも体験してみることが重要なのではないか、と思ったからです。

――実際に企画者として立ち回る中で、どのようなことが印象的でしたか?

自分が1からすべて決めるということは、当たり前ですけど想像以上に大変で責任重大でもあるのですが、ヘンなストレスはなくてとにかく楽しかったですね! 昔は劇団をやっていた、シナリオをひそかに書いていたというような人たちが、同じように出産を機にそれらを何十年もずっと棚上げしてしまってて。そんな人たちが「人生を変えたくなった」と言ってたくさん集まってくれました。自分よりも年代が上の方も数多く集まってくれたのが意外でしたし、とても嬉しかったです。

講座設計で頼りにしたのは、「自分の心が動くかどうか。」

――市川さんと同じ悩みを抱える女性たちからたくさんの共感を得たのですね。
ご登壇者も非常に豪華な面々ですが、どのように選出されたのですか。

2015年に開校した「ラブストーリー・クリエイター・スクール」には、山田太一氏、紀里谷和明氏、テリー伊藤氏など豪華な講師陣をお呼びしました。私自身全く面識のない方々でしたが、私がお話を聞いてみたいと思う方を考え、お一人ずつ直接ご依頼をさせていただいて実現しました。皆さん、器がとても大きい方達ばかりで感謝しかありませんでした。

――受講生の皆さんとも交流されたのでしょうか。

スペシャルな回では著名な先生方から貴重なお話を聞かせていただき、通常回ではこちらも映像の世界の第一線で活躍している方々から実践的なことを学びました。毎回の宿題やワークを通じて受講生のみなさんもどんどんレベルを上げ、最後はスクールの目標であるカンヌ国際映画祭の短編部門に短編映画を制作してエントリーするというミッションを果たして無事終了しました。

夢はさんまさんと仕事をすること

作家・現場での制作・起業・スクール…全て繋がって今がある

ここ数年、ドラマの進捗や舞台裏の情報をSNSに更新することが多くなりましたが、今は時間的にがっつり携わることが難しくなった放送作家の代わりに、知り合い経由で「ドラマのSNS係」ということ自体を仕事として依頼されるようになりました。
ドラマの収録現場でtwitterやfacebook、LINEなどのSNSにアップする情報を仕入れ、出演者のオフショットを撮ったり、記事を更新するのですが、こういったテレビ現場をよく知っていて、且つユーザーが面白がってくれそうなことを見つけたり、文字にしたりすることができる私のような立場は重宝がられるようで、その都度チームを作り数本の作品に携わっています。
このチームメンバーというのがラブストーリー・クリエイター・スクールの受講生だったりしています。

そして、変わらず映像プロデューサーとして、まだ具現化できていない古屋の作品を企業などにプレゼンし、作品を世に出す最初の一歩の仕事をしています。

さんまさんに会うため、観覧番組を観に大阪までやってきた


――今、市川さんの原動力になっていることを一つだけ挙げるとすれば、それはどんなことでしょうか?

学生時代から放送作家になるまで40以上のアルバイトをしてきました。もともと飽きっぽい性格で何事も長く続かなかったのですが、放送作家になってからは、その時々のタイミングによって形は変えているものの、映像に関わる仕事はずっと続けていることになります。それはやっぱり子どもの頃のバラエティ番組がとにかく好き、自分自身がおもしろい現場にいたいという思いがずっと支えているものだと思っています。

バラエティ番組、もっと言うとさんまさんが大好きで、今でもさんまさんの番組だけは欠かさず見ています。これからも自分の生活、働き方が変わっても、どんな形でもこういった仕事を続けていれば、いつかさんまさんと仕事ができるかも!という夢をもって、変化を恐れず今まで通り、好きな仕事をしていられたらと思っています。

――華やかなキャリアは、原点となる強い憧れに向かって市川さんが一歩ずつ前進してこられた結果なのですね。本日はありがとうございます!

<合わせて、聞きたい!>

  • これから先の仕事との関わり方や、目標などを考えていますか?
    今さらですが「シン・ゴジラ」を見たとき、エンドロールの長さに、あれだけ多くの人が関わっているのかと泣けました。そんな、「シン・ゴジラ」級の大作を任せて欲しいという思いはあります。
    世界を視野に入れたコンテンツを作り、監督・古屋を世界に売りたいと思っています。お会いしたことはないですが、「シン・ゴジラ」も手がけられた東宝の市川南さんとお仕事してみたいです。名前が似ているので…(笑)。
  • 仕事は変わっても、変わらず大切にしていることはありますか?
    「何がどうつながるか分からない」ということは常に思っています。
    放送作家の時は「どんな仕事も断らない」方針でやってきました。たとえ自分がそこまで興味ないジャンルの仕事でも、私に話があったということは「(もちろん何かしらの事情はあるだろうけど)とりあえず、その人は『まあ、やれるんじゃないか』と思ってくれたんだろうから、とりあえずやってみよう」という感じでやります。
    仕事内容というより、人で考えます。好きな人、お世話になった人からの仕事だと、たとえ途中で色々問題が発生しても笑い話になるので…でも意外と、ささいな仕事ほど、その後、大きな仕事を連れてくることがあるなあーというのが実感です。

今につながる1枚
これはDVD「スカイフィッシュの捕まえ方 〜サイエンスジャーニー編〜」の制作兼AD兼プロデューサーをやったときのヒトコマ。監督の古屋と水野さんとのミーティング風景です。それまでは、映像制作におけるほんの一部分(=放送作家が担当する部分)しか正直分かりませんでしたが、「制作」を経験することで、各ポジションの作業内容はもちろん、それぞれの大変さ、苦労、制作過程を身をもって知る事ができて、視野が広がりました。この経験は仕事観に大きく影響を与え、人生のターニングポイントといっても過言ではありません。当時は家で「本当にこの仕事向いてないわ…」と泣いてばかりいましたが、人生分からないものです(笑)


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Vol.3 編集者 疋田 理矢子さん