『ALWAYS 三丁目の夕日』や『STAND BY MEドラえもん』など多くの名作を送り出してきた映像制作会社・白組。同社の代表取締役社長である島村達雄さんは、日本で初めてのカラー長編アニメーション映画『白蛇伝』の現場に始まり、1000本以上のアニメーション作品に携わってきました。その島村さんが製作総指揮を務める『GAMBA ガンバと仲間たち』は、構想から15年、10年の製作期間を経て完成した3DCGアニメーションです。本作の公開に際し、ご自身のことやクリエイターへのアドバイスなど、お話を伺いました。

 

■ アメリカのパッケージデザインに魅せられて、東京芸大の図案科へ

ものづくりに興味を持ったきっかけは、終戦後間もなく触れたアメリカの最先端デザインです。戦争中は華美なものは禁じられ、食生活も貧しくなる一方、小学校5年生の時に空襲を経験し、焼野原のなかで終戦を迎えます。衣食住のすべてが失われているので、極貧状態でしたが、奇跡的に、名門の進学校都立二中(現東京都立立川高校)に入学できました。東大を目指すような子と机を並べた授業、勉強について行けない(笑)。放課後立川駅前の闇市に並んでいたアメリカの雑誌や絵本、商品を見るのがとても楽しみでした。

IMG_2173なぜアメリカ本国で発売されたばかりの商品に、敗戦国の日本の立川で触れることができたのかと言うと、立川にあった米軍基地内PX(スーパーマーケット)から新品同然の商品が闇市に流出し並べられ、安い値段で売られていたからです。
米兵は新刊の雑誌をペラペラめくっただけで、惜しげもなくゴミとして捨ててしまう。それを拾う日本人の業者がいて、闇市が賑わっていたんです。当時のアメリカの雑誌は全盛期で、僕のようにグラフィックデザインなんて言葉を知らない田舎者でも「凄い!」と感動しました。チョコレートやチューインガムのパッケージデザインもカラフルで、おしゃれで「シビレ」ました。「新しいデザイン」の世界があることを知り、東京芸大の図案科(現在のデザイン科の前身)に進むことを決心しました。

芸大に在籍している頃から、日本でもデザインに注目が集まるようになり、登竜門となるコンペが開催されたり、資生堂やサントリーなどデザインに力を入れる企業が現れ、芸大から就職する人も出てくる。グラフィックデザイン全盛期、前夜の熱気がありました。
でも、僕自身は当時、外国映画を見る機会が多く、アルフレッド・ヒッチコックの映画によく見られた、メインタイトルやクレジットタイトルの動くグラフィックデザインに夢中になったり、映画『八十日間世界一周』のクレジットタイトルでソール・バスというアートディレクターが手掛けたグラフィカルなアニメーションに驚嘆したりしていましたね。

 

■ カンヌ国際広告祭に日本のCMとして初めて入選した「赤玉ポートワイン」

グラフィックデザインのような、おしゃれなものに憧れながら、新卒で東映動画(現東映アニメーション)に入社することになりました。そこで『白蛇伝』という日本で最初の長編アニメーション映画のアシスタントをするのですが、思い描いていたものとは違う漫画映画には少々抵抗がありました。
IMG_2117でも、その当時から既に、日本がアニメ大国になる予感はありましたね。と言うのも、少ししかプロがいない現場で、アニメーターと云う職種も認知されてないのに、急募で集まった新人達が長編アニメを作ってしまった。手塚治虫さんを頂点に新時代の漫画家が続々と誕生していた時代なので、漫画家志望の若い人たちがひしめいていた。そんな時、東映動画が新設され、作画を担当する人材を大募集したので、漫画家志望の若い人が大勢集まった。15歳くらいの若い子もいたが、少し手ほどきを受けるだけで、アニメのキャラクターをどんどん描いてしまう。日本人はアニメに向いている!驚嘆しました。

『白蛇伝』のアシスタントを経験して、僕自身は漫画のキャラクターを描く能力がないことを自覚しました。東映動画で漫画映画制作にたずさわるのは無理だ、CMだったら自分の才能を活かせそうと思い転籍を希望しました。CM課では東映撮影所から来た人情家の課長に目をかけてもらう幸運に恵まれました。「芸大出身なら何でもできるだろう」と言われ、アシスタント経験1年なのに、チームリーダーとして、一本立ちを命じられた時は本当に大変でした。

CMを作ると言ってもどうしていいか分からない。作画については、『白蛇伝』のときの上司を訪ねて教えを乞い、撮影については撮影部の部屋を訪ねる、編集部は恐かった。何も知らない新人同様のチームリーダーが、社内のプロにイロハを教えてもらいながらCMをでっちあげる、今思い出すと冷や汗がでます。そんな状況の中、撮影部の協力が思わぬ成果を上げることになります。当時、長編漫画映画では、画力のあるスタッフ揃いなので、何でも絵で描いてしまう傾向があり、撮影部は《セルを置き換える単純な撮影》が主で、カメラワークを駆使する機会があまりありませんでした。そんな時、新米のチームリーダーに撮影の講義をするうち、東映動画が誇る最新鋭の撮影機のスペックを再認識、CMの映像に応用することを勧めてくれるようになったのです。こうしてカメラワークを駆使した「新しいグラフィカルなアニメーション」の開発を進めることができたのです。その成果は、サントリーの「赤玉ポートワイン」のCMで実を結びました。切り絵風のイラストレーションを短いディゾルブ(オーバーラップ)を連続させてアニメーションするものでした。カンヌ国際広告祭で日本のCMとして初めて入選することができました。

 

■ 3DCGと、カメラをコンピュータで制御するモーションコントロール

東映動画でのCM作りは充実していましたが、労働運動の激化もあって東映を出る決意をして、最終的には自分たちで会社を作ることになりました。
そこからやっと自前のカメラでアニメーションをベースにした特撮も手掛けるようになります。当時の特撮は円谷プロ育ちの人達がほぼ独占していましたが、大林宣彦さんがメジャー映画の監督としてデビューすることになり、僕が特撮監督を務めました。二人ともCM育ちで撮影所(円谷特撮)特撮の基礎がない(笑)。ド素人の特撮は見られたものではないと、特撮のプロから酷評されたものの、映画が公開されると意外に評判がよく、大林さんとは、その後何本も特撮映画を作りました。

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白組を作ろうと思った一番大きな背景には、デジタル時代の到来があります。大林さんのような新世代の監督はフィルム合成を駆使して特撮にたよらないVFXに傾斜する一方で、円谷系の人は合成に頼らない、ミニチュアや実物大セットで、操演や仕掛けを工夫してリアリティを追及する。飛行機もホリゾントの空の前で糸で吊って操演する。フィルムの光学合成のマスクのわずかなズレや画質の劣化を嫌ったのです。

僕はその当時、映像制作のデジタル化がひたひたと迫ってくることを感知していました。だんだん姿を現しくるコンピュータ・テクノロジーは可能性が大きすぎて、ワクワク感より不安感の方が大きかった。3DCG誕生は頭を殴られるほど衝撃的でした。人類はここまで到達した。造形芸術、アニメーションは革命期に入った。コンピュータ・テクノロジーは人類の歴史の中で最大クラスのエポックメイキングなものだと思います。産業革命で印刷機が発明されて紙の書籍ができたものが、今度はデジタルになってコミュニケーションの手段として化け物のように発展する。白組の設立前夜には、アメリカで銀行口座の管理に革命を起こした程度のコンピュータが、白組設立3年もたたないうちに、アニメーションに革命を起こそうとするまでになっている。1970年代、アメリカのユタ大学にエバンスとサザーランドという二人の博士がコンピュータ・グラフィックスの研究室をたちあげ、そこに全米から若い学生があつまり、熱狂的にCGの研究がおこなわれました。驚くべきことに、ここで3DCGの基礎的な仕組みが確立したのです。若い学生の中に、後にピクサーを創設する、キャットムルがいました。彼はCG研究者であると同時に、ディズニーのアニメーションに憧れを持ち続け、多くの困難を乗り越え、紆余曲折を経て『トイ・ストーリー』が誕生することになります。

さらに白組を設立した頃の大きな出来事としては、『スター・ウォーズ』の公開があります。当時のハリウッドは元気のない時代で、テレビが全盛期を迎えていました。『スター・ウォーズ』は新世代の特撮映画として、ハリウッド映画の救世主となりました。
だが、新世代の特撮といってもコンピュータ・グラフィックスはほとんど使われてなく、カメラワークをコンピュータで制御する「モーションコントロール」が活躍していたのです。カメラの動きや被写体(戦闘機の模型など)の動きをコンピュータで制御するので、同じ動きを何回でも正確に再現できます。それは精巧なマスクが作成できることを意味します。ただし撮影はフィルムを使い、最終的に光学合成なのでアナログ処理です。そのときジョージ・ルーカスは映画の音声も含めデジタル化しなくてはと考えていました。

映像制作のデジタル化の2大潮流である「3DCGアニメーション」と「モーションコントロール」。白組はどちらを選択すべきか、悩みました。迷った末『両方の開発』を同時に平行してやる決意をして「調布スタジオ」の建設に着手します。そこに、山崎貴が入社してきました。山崎は『スター・ウォーズ』世代の天才で、完成したばかりの「調布スタジオ」を自分流に組み上げていきます。木工工作室、金属加工室、塗装室、ミニチュアやキャラクターの組み立て室、3DCG制作室、エフェクト・コンポジット制作室、撮影ステージ(モーションコントロールシステム設置)、ミーティングルーム・試写室・・・。この設備はほとんど山崎監督ワールドを実現させるための装置ということもできます。でもこれだけの贅沢な装置の力をフルに引き出すには、よほど力量がないと無理です。山崎監督以外に考えられないと思いますね。

(C)SHIROGUMI INC., GAMBA
(C)SHIROGUMI INC., GAMBA

『ALWAYS三丁目の夕日』や『永遠の0(ゼロ)』で白組の「VFX」は高い評価を得ている反面、3DCGアニメーションはゲームやCMでいそがしく、白組の独自色を出すのが後回しになっていることが社内で問題視されていました。「モーションコントロール」と「3DCGアニメーション」の「二兎を追う戦略」の失敗かもしれない。ピクサーはひたすら「3DCGキャラクターアニメーション」を追及して、『トイ・ストーリー』を成功させ、その後も次々に傑作を生みだしている。このままではピクサーの背中が見えなくなってしまう。かなり早くから「フル3DCG長編アニメーション」を日本で最初に作らねばと考えていました。
企画を検討しているとき、小川洋一(現白組副社長・総監督)が「冒険者たち ガンバと十五ひきの仲間」を熱心に推薦、原作者から3DCGアニメーション化権を得てプロジェクトがスタートしました。

 

■ 実現する方法論はたくさんある

3DCGで長編アニメーション映画を作ることは、始めてみると分からないことがたくさんあって大変でした。キャラクターデザイン、アクションの基本方針など、常にピクサーを意識してしまいます。独自色を出すのに苦労しました。シナリオ、絵コンテ、パイロットフィルム、プリプロダクションを終え、製作委員会の座組みも見えてきて、本制作突入直前、「リーマンショック」に見舞われ、主幹事会社の降板などがあり、制作の中断に追い込まれました。中断は大きな痛手でしたが、作品をよりよくするための、見直し作業が出来て今思えば「幸運だった」といえます。CGの技術は、日進月歩を続け、ソフトウエアは革命的に進化した「よいもの」が出ることがあります。初期の頃に設定したモデリングを改良して、以前に比べ表情をはるかに豊かに表現出来るようになるなど、大きな収穫がありました。

(C)SHIROGUMI INC., GAMBA
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ソフトの進化の恩恵をうけた典型に「海の表現」があります。中断前のスケジュールでしたら、今のようなダイナミックな表現は無理だったでしょう。シナリオも何度も書き直しました。脚本の古沢良太さんは初めて手掛けたアニメーション映画でしたが、最後まで改良に積極的で素晴らしいシナリオになりました。

そして、エンディングの映像にもぜひ注目してほしいですね。森本千絵さんによるおしゃれでグラフィカルな短編アニメーションがついています。東京芸大に在籍していた頃から、ずっと動くグラフィックデザインを長編映画のタイトルでやりたいと思っていた原点が、57年目に実現しました。

これから映像制作にかかわりたいという方は、自分から湧き出る「やりたいこと」を持たないと駄目です。自分自身を振り返って、最初東映動画で漫画のキャラを描くのが下手で漫画家志望の子に敵わなかったけど、自分の目指す世界をしっかり持っていたので、撮影のメカニズムやフィルムの特性を徹底的に研究して、新しいアニメーションの表現を開発し今の仕事に繋がっています。実現する方法論はたくさんあるので、やりたいものを見つけ出すのは大変でしょうが、執念を燃やし続けプロフェッショナルを目指しましょう。失敗を恐れない、あらゆる失敗を経験して本物のプロになる。自分独特の長所(得意)をもち、仕事が好きで好きで、好き!になりたいですね。


■作品情報

『GAMBA ガンバと仲間たち』
10月10日(土) 2D/3D ロードショー!

(C)SHIROGUMI INC., GAMBA
(C)SHIROGUMI INC., GAMBA

声の出演:梶 裕貴 神田沙也加
高木 渉 矢島 晶子 高戸 靖広 藤原 啓治 池田 秀一 大塚 明夫 / 野沢 雅子
野村萬斎

原作:「冒険者たち ガンバと15ひきの仲間」斎藤 惇夫作・薮内 正幸画(岩波書店刊)

製作総指揮:島村 達雄 企画・総監督:小川 洋一
監督:河村 友宏 小森 啓裕
脚本:古沢 良太
音楽:ベンジャミン・ウォルフィッシュ
CGテクニカル・スーパーバイザー:初鹿雄太
CGキャラクター・スーパーバイザー:大橋真矢
エグゼクティブ・プロデューサー:アヴィ・アラッド
プロデューサー:紀伊 宗之 藤村 哲也 早船 健一郎
コミュニケーション・ディレクター:goen゜ 森本 千絵
製作・アニメーション制作:白組
配給:東映

■オフィシャルサイト

http://gamba-movie.com/