映像作家として注目される鈴木郁実。「でもアシスタント修行中は、口答えするし、鳴り物入りで入って来たわりには使えないと言われ続けました」。根っからの真面目、感性鋭く頭が切れ、しかも正直な若者には、有象無象の映像業界はキツかった。それでも続けてこられたのは、映像演出の魅力を教えてくれた人、そして演出家として生きていくための術をいちから叩き込んでくれた人がいたからだ。
才能との出会いに育てられ、人との巡り会いから仕事が生まれ、その仕事が新たなチャンスを呼ぶ。いま確信しているのは“自分には映像しかない”ということ。未来に続く一本道だ。

映画でもつくらない?

映像制作に初めて触れたのは、高校2年生のときに文化祭で短編映画を制作したときでした。ずっと部活は剣道部でしたし、映画が好きだったわけでもありません。本当に不思議な話なんですが、前の席に座っていた女の子が急に振り返って、「映画でもつくらない?」と言ったのがきっかけでした。それで休部中だった映画研究部を復活させ自分が部長になり、映画制作を始めました。当時出始めたミニDVを持っている子に貸してもらい、脚本・演出・撮影・編集を自分で担当し、音楽は作曲を本格的に勉強していた友だちにつけてもらいました。映画『バトル・ロワイヤル』のような学園バトルものでしたが評判もよく、何より楽しかった。仲間たちと徹夜してワイワイやってる感じも含めて、ですが(笑)。
ただ相当悔しい思いもしました。編集はネットで調べながら体験版ソフトをダウンロードしてやったような状況だったので、思い通りにできなかったり、ほしい映像が撮れてなかったり。でもそのときは、将来映像の仕事に就こうなんて気は微塵もありませんでした。業界とは無関係で育ち、ド真面目で高校では生徒会長をやっていましたし、そんなことを思っちゃいけないぐらいに考えていました。
高校3年生になり大学入試に向けみんな受験勉強を始めるんですが、ふたりぐらい、映画やミュージックビデオの監督になるために芸大を目指すなどと言い出す子がいて、「そういうことやっていいんだ。じゃあ、私も!」と、そこから映像が学べる大学に志望変更しました。ですが希望の大学に受からず、就職も考えたんですが、親や先生たちから進学を強く勧められたこともあり、そこから専門学校を探し始めました。急遽3校ぐらい見学に行き、機材が充実していたのと授業の雰囲気が気に入り、日本工学院専門学校放送芸術科(現クリエイターズカレッジ 放送芸術科)にギリギリ滑り込みで願書を出しました。

映像の多様な可能性

最初私はカメラコース志望でした。制作に必要な企画力や演出力なんて学んで得られるものではないような気がして、それより確かな技術を身に付けたいと思っていました。コースはマニアックなショートムービーコースに進みました。ドキュメンタリーの真髄を論じ合ったり、実験映像やアート作品を鑑賞したり、理解し難いところもありましたが、授業で自分では絶対に辿り着けない次元の作品に触れられたことで、テレビや商業映画のようにわかりやすさや万人ウケに捕われない、映像表現の自由さや可能性を知ることができました。それで影響を受けドンドン頭でっかちになっていってしまうんですけど(笑)。
1年生の夏から、ブラスバンドをメインにコンサートやイベントの舞台撮影をやっている横浜の制作会社で、カメラマンのバイトを始めました。その現場が本当に面白かったです。CDやスコアで音の流れを覚えて、次にメインで来る楽器のところに動いて収録していくんです。修了制作ではブラスバンドの楽曲のPVをつくりました。私は企画と脚本と監督を担当し、半年ぐらいかけて真面目につくり、映文連アワードなどで受賞もしました。
卒業後は先生の紹介で制作会社に就職しました。地上波の情報番組と専門性の高いCS番組と企業VP(ビデオパッケージ)の部署があって、私は企業VPの部署を希望しました。実はCMにとても関心があって、番組よりCMのほうが好きだし面白いと思っていたんです。学生時代に映画館で見たTOHOシネマズカードのCMで、映画を正しく見る方法のご案内というのがありました。スクリーンに映し出された点を手でつくったフレームの真ん中に入るようにしましょうということで、試しにやってみたら、フレームの中にTOHOシネマズカードが出てきて、「持っちゃいましたね! TOHOシネマズカード」って(笑)。その場にいた全員が「ウォー!!」ってなって、人の心を一瞬に掴むスゴいCMだってメチャクチャ感動しました。私もそんな作品がつくれるようになりたいと考えていました。

ダウト「卍」 MV ディザー

現在は、企業案件と音楽の仕事数が半分半分です。音楽業界で活動するようになり、クライアントの要望ではない、ある意味言い訳のできない自分の作品を、いい評価もマイナス意見も含め、世の中の人にこんなに見てもらえるんだ、この手応えってなんだ!って、新たな喜びを知りました。最終的に目標とすべきところは、企業案件で「あなたのカラーを出してください」と言ってもらえるようになることだと思っています。

映像で誰かの役に立つ

ずっとアシスタント修行してきて、ようやく3年目に、これなら一人前の「アシスタントという職業」として成立するとこまでは来られたと自分に合格点が出せたので、独立を考え始めました。そこで、このソフトをこのレベルまで使えるようになる、社外のディレクター何人と知り合いになるといった「辞めるために必要なものリスト」をつくり、全項目にチェックがついたので、23歳で会社を辞めました。頭、固いんですよね(笑)。在籍中に知り合ったフリーの先輩方にアシスタントの仕事を紹介してもらい、広報番組やスポット、再現ドラマといったいろいろな現場を担当させてもらいました。そのうち演出も任されるようになり、26歳ぐらいからは演出1本でやっていけるようになりました。
約5年間、企業紹介や製品の広報販促映像をメインにやってきました。一番楽しいのは打ち合わせです。モーターの駆動が何%アップした、製品のここが業界初だとか、その道のプロである開発責任者や広報担当の方々が熱く説明してくださる。私は惚れやすいからすぐ「オオー!」となり、毎回純粋な気持ちで作品に取り組むことができました。
昨年から音楽分野での活動も始めました。知人からライヴのバックに流れるCG映像制作に誘われ参加させてもらったらとても楽しくて。その作品を見た、NGT48劇場の今村悦朗支配人から声をかけていただき、劇場オープン時のNGT48オリジナル曲のLED映像演出を任せていただきました。今村さんはかつて映像監督として活躍されていて、フリーとなった私をここまで導いてくれた恩師でもありました。企業案件では個性や奇抜さを抑えていたので、そのテンションでコンテを提出したら、「もっとお前のやりたいように、お前の色を出せ」と言われました。衝撃でした。ならばと、自分の好きなように思いっきりやらせていただき、2作目では切符の日付、メンバーそれぞれの小ネタなど、細かい仕掛けをたくさん盛り込みました。だれも気付いてくれないだろうなと思っていたんですが、ファンのみなさんが全部見つけてちゃんと解説もしてくれました。それほどまでに一生懸命見てくれるんだなって本当にありがたかったし、とても光栄でした。
映像業界に入った最初の3年間は毎日辞めたいと思っていました。好きだからというより、映像で食べていけるように一人前になるまでは辞めてはいけないという使命感にかられ踏みとどまっていた気がします。でもいまは、この先なにがあっても映像の仕事は続けていこうと思っています。私がやりたいことは、歌、製品、企業イメージ、なんであろうが、映像でそれをプロモーションすること。映像制作を通じて社会とつながっている、だれかの役に立っているという実感こそが、私の最大のモチベーションであり喜びです。

はるな愛「えぇねんで」MV

NGT48でつくらせていただいた作品がご好評いただいて、演出からアニメーションまで手がけられる監督を、ということでMVの先輩監督からご紹介をいただき、やらせていただくことになりました。いまは名刺を脳内で2枚持っていて、企業ものなど問題解決能力を求められる案件のときはフルネーム漢字の「鈴木郁実」、MVなど作家性を求められる案件の時は「icmi」。ただの記号でしかないですが、毎回撮影前に、今日はどっちの自分が求められているのかを確認してから現場に臨むようにしています。

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