TVアニメ『うる星やつら』や、アニメ映画『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』など、数多くのアニメーション作品を手掛け、2004年に公開された『イノセンス』では、日本SF大賞を受賞。またアニメ版から長期に渡って監督を務め、メディアミックスアニメの先駆けとなった『機動警察パトレイバー』シリーズの実写版『THE NEXT GENERATION -パトレイバー』が今春に公開され、続いて7月25日(土)より公開される最新作『東京無国籍少女』。
その監督を務める押井守さんに、アニメーションと実写映画の違いや同作の撮影秘話など、お話をうかがいました。
■ 映画は、“時間を実現する”もの
アニメーション映画と平行しながら実写映画を撮り続けて10数年になりますが、アニメーションと実写では、構想段階から制作現場まで全くといっていいほどに異なります。
アニメーション作品の場合、まずは頭の中で一通り映画を作ってしまうんです。カット1からカット800までの絵コンテを一気に描いて、1カットごとに演出していきます。そしてパズルのように組み合わせていく。すでに完成しているイメージに向けて、どんどん作っていくんです。ですから、実写作品と違って使うかどうか分からない画というものは、最初の段階から存在しないんですよ。
かたや実写映画の場合は、現場で撮った画をもとに映画を作ります。アニメーションと違って、事前にあれこれ考えて撮影に臨むようなことはありませんね。過去には、実写映画でも絵コンテを描いていた時期もありましたが、ある時を境にその手法は辞めました。あらかじめ完成品を目指して撮影するのではなく、撮った画の中で使えるショットを探し出すんです。
双方ともに有効な画に仕上げるためには、“時間”がちゃんと画面に写っているかどうかが大切になってきます。映画というのは、最終的に時間を実現するものだと思っていて、その映画のシーンだけに流れている特殊な時間をどのように表現するのか。それは客観的かつ物理的な時間とは違って、心理的な時間なんです。観客が共感できないシーンであれば、ゆったり流れるだろうし、切迫したシーンであれば当然早く流れるだろうし、早く回っている間にも一瞬静止してしまうような瞬間があったり。その時間をうまく作り上げていくのが、映画監督の仕事なんだと思います。
アニメーションの経験があったからこそ、実写映画と比較して考えることができたんです。アニメーションだけに慣れていると、アイデアに体がついていかないし、逆に実写映画だけだと、目の前に情報量がありすぎてコントロールができなくなる。
アニメーションはカットで捉えて、実写映画はショットで捉える。その明白な違いが、最近になってようやく自分の体に染みてきましたね(笑)。
あわせて読みたい
■ 役者の表情を実現させるのではなく、かすめ取る
『東京無国籍少女』を撮るきっかけになったのは、まずタイトルそのものに強く惹かれるものを感じました。すでに用意されている脚本がある場合、監督の見極めによっては異なったストーリの映画に仕上がってしまうこともありますが、リメイクというよりもいい意味で、別の新しい映画ができあがったと思います。
本作において一番はじめに頭に浮かんだ画は、物語の最後の方になりますが、鉛筆で机をトントンと叩くテスト中のシーン。これで一体何を伝えているか。あのサインには、「直ちに帰還せよ」というメッセージが込められているんです。学校生活という日常の中で、突然違う世界が見えてくる瞬間。85分の尺の中でも、このシーンが決め手になりましたね。
どんな内容の物語であれ、まずは自分と一緒に仕事をすることになった役者さんの顔や表情を見た上で、映画の方向性を模索していきます。実写映画では役者さんを撮ることが第一にあるので、役者さんを中心に物事を考えます。そうすることによって、自分が思いつかなかったことが実現できたりするんですよ。
本作で主役を務める清野菜名さんは、一体どのような表情をするのか。脚本をもとにして表情を実現させるのではなく、シーンごとに見せる、ありのままの表情をかすめ取るんです。どんなシチュエーションで撮るのか。その表情に至るための状況をつくってあげて、その中で生まれた表情こそが、使える画になるんです。
ですから、脚本で想定していた少女に彼女を当てはめようとはしませんでした。とにかく、目の前にいる役者さんに全て合わせる。またリハーサルは、スタッフにとっては段取り確認の時間かもしれませんが、監督としてはリハーサルも含めて、使える所を常に探しています。
あわせて読みたい
■ 自分が見つめていたいものを、現場で常に探している
映画を撮るにあたって、どのような方法が一番有効なのかと考えた時、カットごとに脚本を消化していくような撮り方ではダメなのではないかと思うようになりましたね。芝居を段取り通りに撮るということは、演出家の仕事ではあっても、監督の仕事ではない気がするんですよ。
僕自身、役者さんに対しての演技指導は一切しなくて、端的なアドバイスをするだけ。よく言うのが、「瞬きしないほうがいいよ」ということくらいですかね。瞬きをすると、そこで時間が途切れてしまうので。だから僕が撮った役者さん達も、そのことだけは覚えてくれていると思います(笑)。
2009年に公開された映画『ASSAULT GIRLS(アサルト・ガールズ)』では、3人の女性が主役ですが、みんなが顔を揃えた日は一日も無くて、実は一人ずつ撮影をしたんです。何故かというと、役者さんは一人しか追いかけて見ることができないから。特に女優さんは立場上、監督に絶えず見ていてほしいと思っているので、真剣に向き合い最初から最後までカメラが回った後まで、ちゃんと見ています。だから、「ここでカット!」ということがあまりないですね。カメラもずっと回し続けています。
基本的には、自分が見つめていたいものを現場で常に探しているだけなんですよ。演出家で優れた人はいっぱいいても、撮るべきものを決められるのはやっぱり監督だけじゃないですか。それに特化した方がやりがいもあるし。映画監督はおもしろい仕事だなと、あらためて思えるようになりました。
■ 絶えず答えを見つけながら作っていく
ここ数年の間で、映画に対しての捉え方が変わったと自分でも思います。昔は、風景を綺麗に撮ることばかりを気にしていました。役者さんはその中の一部として撮っていたし、隙もないくらいガチガチに画づくりをしていましたが、これからは逆に隙だらけで映画を作っていきたいですね。
隙がないと時間が流れないし、役者さんの顔だけを撮っていても、確実に時間は流れるんです。物理的な時間とは無関係に“眺め飽きない表情”って、必ずあるんですよ。いろいろな役者さんとやりとりしていく上で、映画を撮ることの奥深さがだんだんと分かってきました。
実写映画は、目の前にあるものや誰かを根拠にして作品をつくることができる。これは、アニメーションの世界では、あり得ないことなんですよ。対してアニメは、自分の頭の中以外に根拠が持てない。また、どちらの現場においても言えることですが、時間をかければいい作品ができるわけではありません。
てっぺんを回っても、なお撮り続ける監督さんも中にはいらっしゃるかもしれませんが、「とりあえず全部撮っておこう」といったスタンスは、あまり望ましくないですね。なぜなら、一応撮っておくという行動は根拠にならないので。それに、撮り始めるとキリがありません。
僕の場合、撮影は意外と早く終わるのですが、スタッフに「もう撮るものは無いんですか?」と、よく聞かれます。「無い!」とキッパリ答えると、「本当ですね?もう撤収しちゃいますよ!」って…ある意味では、脅迫ですよ(笑)。でもそこで、やっぱりもう少しカメラをまわそうとは思いません。
ですから、撮影の段階で完成を目指す必要はないんですよ。あらかじめ決めて撮るのではなく、絶えず現場で答えを見つけながら考えて、作っていくんです。撮り終えた後の作業によっては、違う完成バージョンがいくらでも成立するし、音楽の入れ方や編集の繋ぎ方によっても、全く異なる映画に仕上げることもできるんです。
その際に、何故このカットを選ぶのか、その根拠となるものをしっかりと示す。それが映画監督の仕事であり、一番おもしろいところですね。こういった概念は、アニメーションの現場には適応しないので、実写映画ならではの醍醐味かもしれません。
実写やアニメーションを用いて“何を実現したいか”が明快であれば、必然的にいい作品ができあがると思います。
■作品情報
衝撃なラスト15分 この結末は予想できない
そこは女子美術高等専門学校。日々、創作活動に取り組む生徒たち。
その中に、かつて天才と持て囃された藍(清野菜名)が居た。彼女は事故で怪我を負った影響で心に傷を抱えてしまい、今では眠ることも出来ず、授業もドロップアウトし、ただ一人、謎のオブジェを作り続けていた。
そんな藍を再び広告塔として利用するため全てを黙認し、決して学園の外に出そうとしない教頭(本田博太郎)。特別扱いされる藍を苦々しく思う担任教師(金子ノブアキ)と、嫉妬を募らせる同級生たち。
降りかかる執拗なイジメと嫌がらせの中、唯一、彼女の身を案じる保険医(りりィ)にも心を開かない藍。やがて、心休まらない憂鬱な日々は、藍の中で目覚めた「なにか」によって崩れ始める…。
群発する地震。響く大量の鳥の羽音。学園内に流れ続けるクラシック音楽。
そして繰り返される謎の声…「お前はなぜ、ここにいる?」
2015年7月25日(土)より新宿バルト9ほか全国ロードショー
■監督/押井守
■出演/清野菜名 金子ノブアキ/田中日奈子 吉永アユリ 花影香音/りりィ 本田博太郎
■配給/東映ビデオ
(C)2015東映ビデオ