――東日本大震災の避難所での出会いが、ドキュメンタリー監督・藤川佳三の運命を大きく変えた。その人は、底抜けに明るく、奔放で不思議な魅力を放ち、そして孤独だった。「村上愛子さん。彼女はどんなときも風に向かって生きていた。ずっと僕のことを心配し、いつもあと押ししてくれた。いろんなことに立ち向かう勇気をくれた。愛子さんと出会えて本当によかった」。励まし合い、寄り添い続けた約8年にわたる日々。愛子さんは同士だったと藤川は言う。――

愛子さんも僕も“ひとり”でした。そこに共鳴したんです

2012年に公開された、ドキュメンタリー映画「石巻市立湊小学校避難所」を撮影していたときから、愛子さんが一番気にかかる人でした。愛子さんは他の人と違う視点を持っていました。津波のことを「津波様」と呼んだり、発する言葉が印象的で、「この人は、どういう人なんだろう? どんな人生を送ってきたんだろう?」と興味がわきました。でも、果たしてそれを掘り下げるべきかどうしようか。関わるということは責任が生じますし、中途半端はダメだし、あまり近づきすぎるとお互いのためにならないかもしれないと、最初は悩んでいました。でも興味のほうが勝った。次第に愛子さんと個人的な話もするようになりました。

愛子さんも僕も“ひとり”でした。僕は一度結婚したのですが失敗し、元妻と子供とも離れて生きてきました。両親との仲も良好というわけではない。愛子さんも理由はわからないのですが、親類縁者と距離をおいている。僕も愛子さんも家族がいないわけではないのですが、自分はひとりなんだという意識を強く持っていた。そこにすごく共鳴したんです。「この先どうやって生きていくのかな?」と、自分の人生の指針を同じような家族観を持つ愛子さんに求めていたのかもしれない。愛子さんが仮設住宅に入居するとき保証人になったのも、この先ずっと愛子さんと付き合っていくんだという僕の覚悟の表れでもありました。愛子さんも僕に対して、心を許してくれていたと思うし、僕も愛子さんをどこかで頼っていました。互いに信頼し支え合う関係性の中で、僕は愛子さんの姿を撮り続けました。

東日本大震災発生約1カ月後からカメラを回し続ける

2011年3月11日に東日本大震災が発生し、4月21日に僕は初めて石巻に入りました。10月に湊小学校避難所が閉鎖され、でもまだなんか気になって現地に残り撮影を続け、編集作業に入ったのは12年が明けてからでした。8月に映画「石巻市立湊小学校避難所」が公開され、その後も年に3回程度、最低でも1回は石巻を訪れ、愛子さんと過ごし、カメラを回し続けました。完成した「石巻市立湊小学校避難所」を、愛子さんは懐かしむように、嬉しそうに観てくれました。愛子さんは、日常会話でいつも避難所の話が出てくるんです。同じ話を何度もするんですけど、「もう聞いたよ」とは言わず、僕はずっと耳を傾け続けました。それだけ愛子さんにとって湊小学校避難所での生活が楽しかったんだと思いました。愛子さんに「どんな子供でしたか?」とか、いわゆる取材みたいに正面から質問しても何も返ってこない。でも、「ちょっと子供の頃の話を教えてよ」って、自然な会話の流れで聞くと、ものすごく話す。しかも、本当に記憶が鮮明で、独特の言い回しで語られる身の上話にいつも引き込まれました。当初は、子供の頃、思春期、大人になってからと、順番に聞いていこうとしたのですが、それではうまくいかないのはわかっていましたので、自然とカメラを向ける中で、愛子さんが話すことを記録していき、切り取っていくという方法をとることにしました。

撮ることができなかった4年間

2013年の終わりぐらいから愛子さんの体調が悪くなりました。いま考えれば、あの頃から認知症が始まったのではないかと思っています。「おかしいな?」と感じながらも、当時の僕には認知症に関する知識がなくて。それまで本当に思いやりのある人だったのに、他人を誹謗(ひぼう)する言葉も口に出ました。愛子さんを慕うボランティアの方が全国にたくさんいて、みなさんと楽しそうに電話や手紙のやり取りをしていたのに、ひとり、ふたりと愛子さんから離れていった。あんなに大切にしていたみなさんとの関係を、自分から切っていったんです。だんだん人付き合いをしなくなった。その頃に僕は撮影をやめました。僕が大好きな愛子さんではなくなってしまって、そんな姿を撮る気持ちにはなれなかった。

僕はジャーナリスティックな視点で、震災に遭ったひとり暮らしの現実みたいなものに焦点を当てたいと考えていたわけではないので。正直、もう作品にはできないなと思っていました。それでも愛子さんのもとに通い続けました。17年10月に愛子さんはようやく復興住宅への入居が決まり、その引越しシーンが映画のラストに出てきます。なんとか撮っておかないと、残しておかなければと、4年ぶりにカメラを回しました。このとき、感情を爆発させる愛子さんが出てきますが、どこか不安定な状態だったけれど、あのような愛子さんは初めて見ました。「思い出なんてなくていい!」と叫ぶのですが、言葉をそのままの意味に受け取れない。きっと裏返しだと思った。実は僕もその日は、カメラそっちのけでずっと片付けを手伝っていて、だから本当に偶然撮れたシーンでした。いまでもこの言葉の真意について考えます。仮設住宅を出るか出ないかぐらいのタイミングから、愛子さんはよく僕に電話をかけてくるようになりました。その日はちょうど仕事が忙しくて僕は電話に出られなくて、そしたら留守番電話に3分間びっちり愛子さんからのメッセージが残っていました。それが映画の冒頭に流れる愛子さんの声です。

やっと大好きだった愛子さんを映画にすることができた

愛子さんは18年の夏に亡くなりました。その2カ月ぐらい前、愛子さんに電話しても何日も繋がらなくて、慌てて石巻に向かいました。そしたら入院していて、僕は家族でもないし、面会も危うかったんですが、避難所からずっと付き合っていてお世話になった人だと言って必死に説明して、やっと面会が許された。愛子さんはもうかなりやせてしまっていて、言葉も出ないような状態でした。それが、愛子さんと会えた最後になりました。先ほども言いましたが、作品にはならないと思っていたこともあって、撮影した映像を見返すこともなくそのままにしていました。そのうちにコロナで石巻にも行けなくなり、僕も愛子さんがいなくなった石巻に行くのは辛かったし、気づいたら3年が過ぎていました。いま思えば、愛子さんが亡くなったことを受け入れる時間が必要だったのだと思います。2021年になってコロナも少し落ち着き、震災から10年ということもあるし、なにより愛子さんのお墓参りをしたいと、知人と一緒に石巻に向かいました。その道中で知人が、ずっと愛子さんとの思い出を話すんです。それを聞いて僕は泣けてきた。嬉しかったんです。愛子さんはみんなに本当に慕われていたんだってことを改めて感じて、そんな愛子さんのことを自分はずっと撮ってきたわけだから、やっぱりきちんと作品にしなければと思いました。

約8年間撮り続けてきた映像を見直し、愛子さんと再会できた気がして嬉しかった。辛いこと、孤独ももちろんあっただろうけど、明るく前向きにいようとする姿。出会った人たちや両親との思い出をどれだけ大事にして生きていたのか。花が大好きで、「花追っかけ、私」って嬉しそうに話していた。津波で流されてしまった自宅跡の荒地で、自慢だったムラサキシキブの無残な姿を慈しみ、でもその脇に生き残った苗木を見つけ、「私と同じでしぶとい。津波に負けなかったね」と喜びながら泣いた愛子さん。人と話すのが好きで、動物も好き、命あるものが本当に好きで、カラスとも会話してました。「残せるんだね。私が生きていたこと、わかってくれる人、いるよね」と笑っていた。時間はかかりましたが、やっと僕が大好きだった愛子さんを映画にすることができました。いまは晴々とした気持ちです。

石巻市立湊小学校避難所と出会い、ドキュメンタリーへの思いが復活した

大学生の頃に映画を好きになり、卒業後はその道に進みたいと思うようになりました。その頃から好きだったのが、わりととんがった社会派作品を手がけていた瀬々敬久監督でした。瀬々監督を頼り、当時、監督はピンク映画を撮っていて、僕は助監督でつかせてもらうといった感じで業界に入りました。憧れて入った世界でしたが、本当にキツくて大変でした。初めてで何もわからない中で、「これ集めろ」「あれ調べろ」と言われうまく対応できず、ようするに仕事ができなかったんです。体力もないし、いまより人見知りで話すのも苦手で、辛かった。それでもやめずに続けていたのですが、ピンク映画ではやっぱり食べていけず、Vシネマやテレビドラマの助監督をやるようになりました。でも、助監督ばかりやっていてもラチがあかないなと、お金を貯め20代後半から自主映画をつくり、PFF(ぴあフィルムフェスティバル)に応募したら入選して、これで道が開けるかなと思ったのですが、そうでもなく(笑)。次第にゼロから物語をつくっていくことの難しさを感じ始めました。

当時からドキュメンタリーが好きだったこともあり、映画監督としての未来を思い描いたときに、フィクションでなく、現実の世界に向かっていったほうが自分には合っているのではないかと思うようになりました。それで、離婚し別れた家族にカメラを向けた私的ドキュメンタリーを撮りました。2005年に公開されたのですが、でも手応えのようなものは感じられず、もう自分が撮るのは難しいのかなと。カメラを向けることで相手を傷つけてしまう、その危うさをすごく感じたし、そんな中でうまくバランスをとって作品をつくれるような力量が自分にはないと思いました。それで撮ることはやめて制作スタッフとして映像の仕事を続けていたのですが、東日本大震災が起きて自分の目で震災をみたいと思い、石巻に向かい、湊小学校に行ったことがきっかけで、ドキュメンタリーへの思いが復活しました。

何度もやめようと思った

先ほどもお話しましたが、僕は普段、映画やテレビの現場で制作をやっています。助監督は無理でしたが、制作の仕事はわりと水が合って、撮影に入るための事前の準備や段取りみたいなものは得意で、ここでならやっていけるなと思いました。普段ディレクターとして仕事をして、その流れで映画を撮る人はいますが、スタッフをやって映画監督っていうのは珍しいかもしれません。本作もそうですけど、自分がスタッフとして稼いだお金をすべてつぎ込んで作っています。もうそれはしかたがない、自分が選んだ生き方なので。愛子さんのドキュメンタリー映画は商業ベースでは成立しないし、でもそういう題材を選んでいるのは僕ですから。長い期間密着し、時間を共有しながら撮るというのが僕のスタイルだし、それによって撮れるものに、僕は価値を見出しているので。自分の撮影に入っているときは、スタッフ仕事はできないので、金銭的にキツイです。やめようと思ったことも何度もあります。それでも僕が続けているのは、ドキュメンタリーには可能性があると思っています。たぶん自分は欲深いんじゃないでしょうか。何かを掴み取りたい、表現したいという欲です。僕にはまだ知らない世界があって、それを知るだけでなく、どう表現するか、描くかということに興味がある。ドキュメンタリーって記録映画とは違って、起きた現実をそのまま見せるのではなく、もっとクリエイティブで、自分が表現したいものに対していろんなアプローチで観客に訴えることができる。そこに僕は面白さを感じています。

佐藤真監督のドキュメンタリー映画「阿賀に生きる」(92)は、監督とスタッフが3年ものあいだ阿賀野川流域に実際に住み、どっしり構えた中で時間をかけてつくった作品で、僕の大好きな作品です。いま、京都大学「吉田寮」の退去問題を追ったドキュメンタリーを制作中なのですが、僕は大学1年生のときに「吉田寮」と出会っていて、学生たちによる自治寮の雰囲気が好きだった。そこが無くなるかもしれないという事実に直面したときに心が大きく動きました。それでカメラひとつ抱えて、「こんにちは」って行ったわけですが、最初から気合パンパンみたいな感じではまったくなくて、人はカメラに対して構えますから、カメラと僕が一体化するまで、僕がカメラを持ってそこに居ても違和感ないと、みんなが納得してくれるまで待つ。カメラって異物だしイヤだけど、藤川ならしょうがないかって思ってもらえたら大丈夫なんです。そのためには長く一緒の時間を過ごすことが大切で、身をもって同じ経験をすることで、なぜ彼らがこういう行動をとるのかがわかるし思いが共有できる。まず仲間になる。僕のドキュメンタリーはそこが出発点です。

映画を観て少しでも想像してほしい

東日本大震災から14年。僕は、震災は終わっていないと思っています。愛子さんに限らずみなさん、津波に遭ったときの話を繰り返しするんですね。それは、忘れようとしてもどうしても忘れられない、被災体験を抱えながら生きていくしかないんだと思います。心の傷は決して癒えない。それは僕が愛子さんと付き合って感じたことです。だから、何年経とうが、震災は終わらないんです。震災は身体もボロボロに蝕む。被災地では歯が悪くなった人がものすごく多かった。愛子さんもマスクをしていたり、手で口を隠しているのは、歯が抜けてしまっていたからです。心身に受けた強烈なダメージによって身体が一気にダメになってしまい、体力が戻らない。その上、避難所から仮設住宅、復興住宅と、状況がよくなっていくのかと思いきや、引っ越しを繰り返すことで、精神的なダメージが徐々に大きくなっていく。どうしてもすれ違いが始まり、人間関係がこじれて、だんだん周囲との付き合いがなくなり、どんどん孤独になり、辛くなっていくわけです。

あれだけ愛子さんが避難所を懐かしがったり、楽しかったと言っていたのは、人間関係がよかったからだと思います。「辛いけど頑張ろう」って、みんなで力を合わせて一緒に乗り切ろうといられた。そういうことを、この映画を観て少しでも想像してもらえたら、被災された方々に対する見方や考え方が変わると思うんです。愛子さんは、辛い、寂しいということを一切言わなかった。愛子さんなりのクリエイティビティあふれる言葉で、「たとえ骨と皮になっても避難所がよかった」と。そんな愛子さんの映像を見直すたびに、いまでも僕はその言葉の本当の意味を考えさせられ、胸がいっぱいになるんです。

藤川佳三(ふじかわ・けいぞう):1968年香川県生まれ。中央大学社会学科卒業後、映画を志し、瀬々敬久監督作品に参加する。以後、多くの劇映画、テレビの仕事に従事する。2001年、自主企画で「STILL LIFE」を製作、PFF(ぴあフィルムフェスティバル)に入選する。05年に離婚した妻や家族と向き合うセルフドキュメンタリー映画「サオヤの月」を発表。12年、東日本大震災の避難所となった宮城県石巻市の湊小学校に半年住み込み撮影した、ドキュメンタリー映画「石巻市立湊小学校避難所」が全国公開される。応援スタッフとして参加した瀬々監督は、撮影時の体験が、映画「護られなかった者たちへ」(21)を手がける大きなきっかけとなったと語る。映画「石巻市立湊小学校避難所」は、台湾ドキュメンタリー映画祭、ドバイ映画祭をはじめ海外でも上映された。現在、退去問題で揺れる京都大学吉田寮のドキュメンタリー映画を製作中。制作を務めた映画「ヘヴンズ ストーリー」 (監督:瀬々敬久/10)、プロデューサーとして映画「菊とギロチン」(監督:瀬々敬久/18)ほか多数の映像作品に参加。著書に『石巻市立湊小学校避難所』(竹書房新書/13)がある。
映画「風に立つ愛子さん」
2011年の東日本大震災で石巻の家を津波で流された村上愛子さん、当時69歳。その出来事は天涯孤独に生きていた愛子さんの人生を大きく変えた。津波を「津波様」と呼び、震災が幸せを運んでくれたと言う愛子さん。避難所での集団生活は、愛子さんにとってかけがえのない時間だった。避難所での記憶を胸にその後を生きた、愛子さんの8年間の記録。

出演:村上愛子、石川ゆきな、湊小学校避難所の人々、石巻市仮設住宅の人々
監督・撮影:藤川佳三
編集:今井俊裕、実景撮影:田中創、整音:黄永昌、音楽:植田智道、仕上げ:田巻源太、協力プロデューサー:藤田功一
製作:IN&OUT、配給:ブライトホース・フィルム
特別協力:石巻市立湊小学校
Ⓒ 2024 IN&OUT
ポレポレ東中野ほか全国順次公開

インタビュー・テキスト:永瀬由佳