五日市町と秋川市が合併し生まれたあきる野市。その市政15周年記念事業として制作された映画「五日市物語」(11)は、五日市の自然、歴史、風土が見事に描かれた秀作だ。山﨑佳之はその作品で主役のひとり栗原雄介を演じた。
「2011年7月に行われた『あきる野映画祭』でオープニング上映され、初めてお披露目されたんですが、お客さんたちはみなさんすごく喜んでくれていました。決して派手じゃない、むしろ静かな作品ですが、自然にあふれた五日市の魅力、そしてそこで生きる人たちの心温まる物語が描かれています」
日本工学院八王子専門学校で演劇の魅力にとりつかれ、児童劇団での旅公演を通じて舞台の神髄を学んだ。2003年に立ち上げた「劇団みるき~うぇい」の仲間たちとは、もう10年来の付き合いである。大切な仲間たちと活動を続けていくこと、観客と一緒になって公演をつくりあげていくこと、芝居を通じて子供たちと触れ合い、子供たちを育んでいくこと――。山﨑はいま、自分が本当に大切だと思えることだけに打ち込んでいる。
「ものすごく手応えを感じているし、いまとても充実しています」
映画「五日市物語」との出会いは、山﨑にとって大きな転機だった。
■ クラスや学科の枠を超え劇団を結成
初めて芝居を見たのは、小学生のときに体育館で上演された児童劇でした。楽しかったですね。それで特別芝居に興味をもったというわけではなかったんですが、昔から物語をつくったり、空想をするのは好きでした。当時サイコロを振ってやるRPGをつくるのが流行っていて、自分でストーリーをつくってクラスのみんなを集めてよくやっていました。
中学校ではサッカー部だったんですが、高校でいきなり演劇部に入ったんです。兄や友だちの影響で声優の仕事を知ってからあこがれていて、あるとき受験勉強をしながら声優さんのやっているラジオを聞いていたら、「声優になるにはお芝居ができないとダメ」って言っていたんです。それで高校生になったら演劇部に入ろうと決意しました。友だちはみんなサッカー部に入ると思っていたから、「お前、何やってんだよ?」って感じでしたけど(笑)。
声優になるには演技ができないといけないという思い込みだけで入った演劇部でしたが、ちゃんと3年間続けました。でも辛かったです。緊張して舞台の上で真っ白になっちゃったり、いい思い出はないんですよね。
高校卒業後は、日本工学院八王子専門学校の演劇科声優コース(現クリエイターズカレッジ声優・俳優科)に進みました。体験入学に行ったら、設備も充実して、雰囲気もとてもよかったので、迷うことなく決めました。だけど声優になるために進学したのに、日本工学院に入ったことで、すっかり舞台の魅力にとりつかれてしまい、完全に役者志向になっちゃったんです。
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在学中に、演劇科のほかのクラスの学生や、音響科にコンサートイベント科にも声をかけ、「劇団ほたる」を結成しました。役者が7、8人、音響、照明、舞台監督など20人ぐらいの劇団でした。稽古場もあるし、教えてくれる先生だっている、それらを使わない手はないなって思ったんです。そしたらほかにもやりたいって学生が出てきて、学校内にいくつも劇団ができたんです。役者をトレードして公演をやったり、お互い感化されて、本当にいい経験ができました。日本工学院時代のあの活動が、いまに生きているんです。
映画「五日市物語」
五日市に実在している人や場所が、そのまま映画に登場しているという点でもとてもユニークな作品。「あきる野市のみなさんと一丸となってつくりあげた作品なんですが、なかでも有名な五日市の阿伎留神社例大祭を再現したお祭りのシーンは、おみこしが本当のお祭りの日以外に出たという、ある意味、奇跡的ともいえる撮影でした」
©2011「五日市物語」製作委員会
■ 子供たちが気軽に見にいける芝居を!
卒業後も劇団を続けようと考えていたんですが、ほかのメンバーがみんな養成所とかに行ってしまって。取り残された感に打ちのめされながら、自分磨きの旅にでも出ようと、旅費を稼ぐためにバイト情報誌をめくっていたら、旅劇団の役者募集の記事を見つけたんです。それが児童劇団との出会いです。
約2年半、日本中を回って公演をしました。やっていたのは児童劇のミュージカルです。もう公演数が半端じゃなかったんですよ。6人ぐらいのチームで回っていたんですが、公演当日の朝に現場を見て、自分たちでセットを組んで、役者が怪我して出られないってなったら、その場で台本書き換えてやったり。芝居を楽しむというよりは、とにかくこなすという感じでした。
もっと丁寧に作品づくりをしたいなんて思いもありましたが、「芝居はライブなんだ」ってことがわかってからは、本当に楽しんでやれるようになりました。子供の反応ってすごくリアルで、面白くないと「つまんない」って本当に言うんですよ。お客さんの空気に合わせて芝居を変えることも、芝居はお客さんと一緒につくっていくんだってことも、すべてここで学びました。
その旅劇団が解散になって、一緒のチームだったメンバーと「劇団みるき~うぇい」を立ち上げました。いま考えると、みんなを集めて何かをするのが好きだった小学生のときと、同じことをやっているんです(笑)。僕の実家は駄菓子屋だったんですが、子供がお金を持って自分の意志で最初の買い物をする駄菓子屋に行くような感覚で、子供がワンコインで見られる芝居をつくりたかったんです。きれいな服を着て立派な劇場で見る芝居もそれはそれでいいと思います。でも、もっと身近な集会所みたいなところで、気軽に楽しめる芝居をやりたかった。その夢はいま実現していると思います。
■「五日市物語」は僕の人生そのものでした
以前僕が出演した、映画「明日の私たち」(09)の栗原郁美監督は、実は高校の演劇部の後輩なんです。高校生のとき栗原さんから、「私が映画を撮るときは出演してください」って言われていて、栗原さんはその言葉通り、僕に出演を依頼してくれたんです。それも感動的な話なんですけど。その「明日の私たち」に「五日市物語」の小林仁監督も参加していて、それで今回僕に依頼が来たんです。台本だけが送られてきて、どの役かわからないまま台本を読んでいて、唯一僕に合う役といったら栗原祐介だけど、こんな大きな役が来るわけないしって思っていたら、電話がかかってきて、「あ、言ってなかったっけ? 栗原役をお願いしたいんだけど」って言われて、震えました(笑)。
「五日市物語」に出演したことで、人とのつながりについて真剣に考えさせられました。僕の祖父は横田基地で映写技師をやっていたんですが、それを知ったのが祖父の葬式の日だったんです。もっと生きているうちにいろいろ話したかったなって思いましたね。映画では、五日市の生き字引のようなトシ子おばあちゃんにこれまでの人生の話を聞くことで物語が展開していくんですが、親や自分より上の世代の人と、元気なうちにいろんな話をすることって大切だなって、祖父のことがあっただけに本当にそう思うんですよね。
僕はずっと劇団をやりながら会社員として働いていたんですが、映画の出演が決まった段階で会社を辞め、いまは劇団一本でやっています。自分のやりたいことってなんだろうなって本気で考えていた時期に、「五日市物語」の出演が決まり、それがきっかけで大きく人生が変わりました。まさに映画の主人公の友里そのものです。その決断は間違ってなかったと思っています。
いまの僕には日本工学院での日々が大きな意味をもっています。だけど、若い人には、学校を卒業するだけでは役者になれないってことは十分理解しておいてほしい。学べる環境も設備もすごく整っているけれど、受け身で過ごしていたのでは、将来的に続けていくだけの力はつきません。だけど、自分でやる気になって動けば、いろんな人に出会えるし、チャンスもたくさんある。とにかく積極的に毎日を過ごしてほしい。そうすれば日本工学院という場所は、必ず未来につなげる何かをつかむことができる場所だと思います。
映画「五日市物語」
情報収集会社「あつめ屋」に勤める伊藤友里(遠藤久美子)は、テレビ局の依頼で五日市の取材を始める。市役所職員の栗原雄介(山崎佳之)に案内され五日市を巡る中で、五日市で生まれ育ち、老舗旅館油谷の女将・岸トシ子(草村礼子)と出会う。トシ子に取材を進めながら、友里はあきらめてしまった夢を思い出す。五日市との出会いは友里の人生を大きく変えていく。
監督・脚本:小林仁 出演:遠藤久美子、山﨑佳之、井上純一、田中健、草村礼子 (11月12日より全国順次公開)
©2011「五日市物語」製作委員会
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