――古巣東映で紀伊宗之が最後に手がけた映画「十一人の賊軍」は、生き残りと己の正義をかけた壮絶な集団抗争時代劇だ。「東映がつくらずしてどこがつくる」。紀伊をはじめとするプロデューサー陣は、映画を成立させるため、まさに賊軍がごとく東映に迫った。はじまりは、監督・白石和彌が発見した、名脚本家・笠原和夫(映画「仁義なき戦い」シリーズほか)が約60年前に書いた16ページのプロットだった。――
これは東映がやるべき作品だ
2021年頃だったと思います。当時僕は東映に所属していて、白石和彌監督と別の作品をやっていました。あるとき白石監督から、脚本家の笠原和夫さんが遺した集団抗争時代劇のプロットの話を聞き、それを原案に映画化を考えているというので、「やりましょう」とふたつ返事で応えました。白石監督との初めての仕事は、僕が企画とプロデュースを手がけた映画「孤狼の血」(18)です。僕は関わってなかったんですが、東映が製作・配給で参加した白石監督の映画「日本で一番悪い奴ら」(16)を観て、「孤狼の血」の監督をオファーしました。それが白石監督との直接の出会いです。
僕ら映画プロデューサーは最初から最後まで映画のすべてを担います。企画、ファイナンス、スタッフィングにキャスティング、予算と制作の管理、宣伝にいたるまで、全部やるのが映画のプロデューサーでしょというのが東映前会長の岡田裕介さんが言ってきたことで、あれはできへん、これはできへんっていうのはないんだよという教えのもとでやってきましたから。映画「十一人の賊軍」についても、笠原和夫脚本で集団抗争時代劇ときたら、それはもう東映がやるしかないでしょうと即断し映画化に向け動き始めたのですが、一番苦労したのは東映の攻略でした。とにかく決裁が下りない。時代劇ですし10億円超というバジェットがかかるということもあって、本当に大変でした。いまはシナリオを読んで「これめっちゃおもろいやんけ」って判断できる映画のプロと、決裁を下せる権限を持った人間が別になってきているってこともあって、それで最終的にはフル尺で絵コンテを描き、パラパラマンガにして声優や若手俳優を呼んできてセリフも全部入れて動画にして試写室で上層部に観せました。ようやく決裁されたのは、クランクイン直前でした。
最後はプロデューサーの勇気にかかっている
例えば製作費を10億円かけるとなると、興行収入20億円はいかないといけないよねとなる。でもトラックレコードで見ると、時代劇だと5、6億円が妥当で、それだと2億円でつくらないといけないということになり、規模や題材がかなり限定されてしまうわけです。結局、聞き分けがよかったら何も打破できない。まずはしっかり予算の目算を立てる。そして承認をもらう。ただ、承認されないときにプロデューサーはどうすんの?って話しで、「会社に言ってみたんですけど、ちょっとこれ無理なんで半分ぐらいの予算でできないですかね」ってなると、「できないよね」で終わってしまう。別に東映が悪いわけではなくて、常にそういう局面ってあって、それをブレイクスルーできる人がいいプロデューサーだと僕は思っています。
キャスティングについては白石監督と相談しながら進めました。当初から、時代劇だから40代以上しか観ないよねという先入観でつくるのはやめましょうと話していました。だからちょっとアップカミングな俳優さんを意識してキャスティングしています。で、となるとまた、製作費10億円というのは決裁されにくいですよね。「10億もかけるんだから、実績のある人で」となる。例えば、賊軍のひとり、剣術家の爺っつぁん役の本山力さんは東映京都撮影所で殺陣師としてもやられてきた俳優さんです。あの爺っつぁんの役がもし役所広司さんだったらどうだろう、とかって製作費10億なら思うわけです。でもそれだとある種の目新しさを失ってしまわないか。出資側は安心するだろうけど、お客さんとしてはどうなのかなと。賊軍の浪人、辻斬役の元力士・豊山さん(小柳亮太)もそうですが、考えてみると賊軍はみんな名もなき死刑囚なわけだから、こうなったら予想できないキャスティングのほうがいいんじゃないかというのが、最終的に僕と白石監督の一致した考えでした。そういう見えない答えを探すのもプロデューサーの僕らがやらなきゃいけないことで、そういった意味では、最後はプロデューサーの勇気みたいなものにかかっている気がします。
2023年8月から約4か月におよんだ撮影
もちろん撮影現場にも行きます。千葉県鋸南町にある採石場跡地につくられた砦のオープンセットにも行きました。現場で僕が一番気をつけていることは「安全」。それ以外、現場に行っても僕がやることはないんですよ。現場の仕切りは監督ですし、クランクインまで監督をはじめスタッフみんなでここまで準備して、絵コンテもあるし、カメラマン、照明、衣装をはじめとするプロフェッショナルなクリエイターが集まって撮影するわけだから。なので、しんどいんですよ、特にやることがないんで(笑)。でも現場に行かないと何も学べないですから。基本的に白石監督の現場は和やかですよ。でも今回は相当厳しかった。水道も電気もないオープンセットで泥だらけになって一夏ずっと撮っていたわけですから、さすがに過酷だったと思います。
だからこそ、よくできた面白いエンターテインメント作品に仕上がっていると思います。本作「十一人の賊軍」もそうですが、白石監督は一貫して、いわゆるあかんヤツ、犯罪を犯した人とかヤクザとか、表社会からドロップアウトしている人たちに光を当てて、彼ら彼女らがそうせざるを得なかった理由や事情を、ときに可笑しみを交えて描く。人の愚かさや哀しみ、滑稽さを捕まえる力、そういった題材の選び方の秀逸さと、それを見つめる目線の温かさは、白石監督ならではだと思います。
「スティング」を観て映画業界にいきたいと思った
生まれは兵庫県西宮市です。映画を好きになったのは中学生の頃です。母親がすごい映画好きで、毎日ビデオ屋でVHSを借りてきては家で観てはるような人でした。邦画も洋画も観てましたけど、世代的にも80年代のアメリカ映画に一番影響を受けたんちゃうかな。印象に残っている映画は「スティング」(74)。「スティング」を観て映画業界に行きたいと思うようになりました。当時はプロデューサーとか監督とか制作や配給といった細かい職種まではわからなかったけど、母親は絵描きだったし、父親は広告屋だったので、ものづくりの世界は身近に感じていた気がします。
勉強は好きじゃなかったけど、ずっとラグビーをやっていました。地元関西の大学を卒業したんですが、映画会社なんて想像すらつかないような出来の悪い大学で(笑)。いまでも覚えてますけど、新卒で受けた会社って、雑誌の『Number』をやりたかったので文藝春秋とマガジンハウス、あと東宝。東映じゃなくてなんで東宝だったかというと、僕は西宮で生まれ育ったので、阪急東宝(現阪急阪神東宝)グループの申し子なんですよ。デパートといえば阪急デパートだし、ずっと阪急友の会にも入っていたし、阪急電車に乗って宝塚ファミリーランドに行き、映画を観るのも北野劇場(現TOHOシネマズ梅田1)といった感じで、余暇はほぼ阪急東宝グループに費やしていたという。で、新卒で受けた会社は全滅で、なんとか入社できたのが、東映の子会社の映画館・東映映画興行でした。
映画の面白さを伝えるために必死で考えた
僕が最初に赴任したのは広島東映でした。当時、広島と、あと静岡と仙台もそうだったんですが、ブロック紙があってテレビ局も4、5局あるような規模のまちなのに、東映の支社はなかったんです。大阪だったら関西支社があって、PRやキャンペーンは営業部も宣伝部がやるわけです。でも広島は僕ら広島東映がキャンペーンも仕切るし、パブリシティもやる。中国新聞に出す広告もつくってました。もぎりもやりましたし、ポップコーンも売りながら、とにかく全部やりました。それがすごくよかったんです。お金の流れがわかった。映画って興行なんですよ。映画館にどれだけお客さんが入るかがすべてなわけです。
20代後半の頃、広島東映の隣にあった朝日会館の支配人に言われたんです。僕よりちょっと年上の人でしたが、「紀伊くんさ、広島市って人口100万人なんだけど、10年やってその100万人に面白い映画があるんだってことが伝えられないんだったら、この仕事を辞めたほうがええよ」って。100万人のまちの隅々にまで映画の面白さが伝われば、確実に映画をヒットさせることができるわけです。でも100万人相手にそれぐらいのことできないようなら、映画の仕事続ける価値ないよねって。そう言われて、頑張ろうって思いました。それっていま僕らがやっていることとなんも変わんないじゃないですか。日本の人口1億2000万人に何億もかけてプロモーションして届かないんだったら、僕がやる意味ないよね、プロとして失格みたいな。要するに覚悟とプライドの問題です。当時は実績もキャリアもなかったけど、100万人のマーケットでどうすればこの映画の面白さが伝えられるんだろう、伝わるんだろうって必死になって考えました。いまそれが、本当に一番いい経験になっています。
2006年ティ・ジョイに出向、2014年東映映画企画部に異動
2024年に東映を退社しK2 Picturesを立ち上げたのですが、その2、3年前から独立を考えていました。やっぱり岡田裕介さんが亡くなったのがひとつ大きかったのと、50歳を超えたぐらいから、自分の残り時間があと10年ぐらいしかなくて、その10年でどれだけ映画つくれんのかなとか、あと10年で自分は何をすべきなのか、何をやりたいのかってことをすごく思うようになった。日本の映画界には素晴らしい人材が揃っている。監督をはじめ、カメラマン、脚本家、衣装、美術、照明、録音等々、みんな優秀なクリエイターです。だからギャラを上げて日本で映画をつくっている人たちがもっと豊かになれるようにしなければならない。
いま一番の問題は、映画業界に憧れをもって入ってくる人材がいないということです。腰にガムテープ下げて走り回ることからスタートするわけだけど、ちゃんと将来に夢がもてる業界にしなければ本当にダメになってしまう。映画が好きだから、映画を愛しているから、そんなきれいごとじゃないんです。映画は僕の仕事であり、僕は日本映画でもっとビジネスできると思っている。だけどこんな状況であと10年やっていたら、「映画つくりたいんですけど、つくれる人がいません」ってことになりかねない。それでは具合悪いでしょ。だから、僕はクリエイターが豊かになれるような新しい映画制作の仕組みをつくりたいと思っています。いまK2 Picturesでは、2026年の公開を目指し20本ぐらい企画を動かしています。大変ですよ。ただ、これまでもずっと、いつだってピンチでしたから。だから心が折れないことだけを心がけています。でも逆風が吹いていたほうが燃えるんです。何事も諦めたら終わりですから。
プロデューサーに最短コースはない
映画監督って永遠の子供なんですよ。すごくピュアな思いがあって、それを映像にしてあらわす表現者ですよね。でも僕らプロデューサーはビジネスマンなんです。クリエイティブのことも理解できているビジネスマンでなきゃいけない。となると、経験が大事になってくるし、やればやるほど学びがある。めちゃめちゃ老成してる監督と20代のプロデューサーが二人三脚でやるってあんまり聞いたことないでしょ。プロデューサーは積み上げだけど、監督は感性で生きているから。プロデューサーは場数を踏んだほうが絶対にいい。僕だって、映画館でもぎりをやったことも、ティ・ジョイで映画館を立ち上げたことも、新規事業で「ゲキシネ」をやったことも、東映に来て映画をつくりだした頃なんか全然だったけど、それらすべてが血となり肉となって活きている。そういう意味でいうと、プロデューサーに最短コースはないんです。逆にいうと、年齢を重ねていったほうがいいプロデューサーになれる。プロデューサーを目指している人や、プロデューサーとして悩んでいる人がいるとしたら、だから諦めんなって言いたい。
映画「十一人の賊軍」はそんな僕の最新作であり、長年お世話になった東映で最後に手がけた作品です。賊軍として戦うことになった死刑囚たちを断罪するんじゃなくて、彼らにも人生があって、守るべきものがあって、落伍者なのにチャーミングに感じられたり、白石監督の真骨頂が存分に発揮されていると思います。印象的だったのは、「十一人の賊軍」を観た経済産業省の官僚が「もうほんまに泣けてしゃあなかった」って。滅私奉公の役人としては、阿部サダヲさん演じる新発田(しばた)藩家老の溝口内匠(たくみ)の立場で観てしまって、たまらなく泣けたって言ってくれました。いろいろな立場の人がいろんな目線で楽しんでもらえるといいなと思っています。
旧幕府軍と新政府軍「官軍」が対立した戊辰戦争の最中、新発田藩(現・新潟県新発田市)の溝口内匠(阿部サダヲ)は対官軍のため結成された「奥羽越列藩同盟軍」と進攻を続ける官軍との狭間で窮地に立っていた。密かに官軍への寝返りを画策する溝口内匠は、出兵を求め城内に居座る奥羽越列藩同盟軍を追いやるための時間稼ぎをもくろみ、鷲尾兵士郎(仲野太賀)らに砦の護衛作戦を命じる。官軍を足止めすべく砦に集められたのは政(山田孝之)ら死罪を免れない罪人たち。新発田藩・旧幕府軍・新政府軍の思惑が交錯するなか、決死隊十一人の壮絶な戦いが始まる。
出演:山田孝之、仲野太賀、尾上右近、鞘師里保、佐久本宝、千原せいじ、岡山天音、松浦祐也、一ノ瀬颯、小柳亮太、本山力、野村周平、玉木宏、阿部サダヲ
監督:白石和彌、原案:笠原和夫
脚本:池上純哉、音楽:松隈ケンタ、照明:舘野秀樹、録音:浦田和治、美術:沖原正純、衣装:大塚満
企画・プロデュース:紀伊宗之、プロデューサー:髙橋大典、アシスタント・プロデューサー:野田あかり
配給:東映
Ⓒ2024「十一人の賊軍」製作委員会
11月1日(金)より全国ロードショー
インタビュー・テキスト:永瀬由佳