――世界は多くの作品で満ちている。それを生み出すあまたのつくり手たち。そのなかで、独自のエネルギーを放つ人たちがいる。なぜつくることをあきらめなかったのか、現場に立ち続けるには何が必要なのか、どうすれば一歩でも次のステージに進むことができるのか。CREATIVE VILLAGEでは、最前線を走るトップクリエイターたちに作品、つくり手としての原点、そしてこれからを問う――
映画をつくれないなら映像制作者としてやってきた意味なんかない ―――監督の有働佳史は、17年という時間を費やし、制作費を自身で負ってまでも、映画「女優は泣かない」を完成させた。「夢は叶えられなくても、意地なら通せる。あきらめなければなんとかなるんです」。後悔も不安もある、でも“好き”にしがみつく必死の姿は、可笑しくも哀しく、ときに眩しい。渾身の意地でつくられた映画「女優が泣かない」が面白い。
だったら、自分の企画で撮ってやる!
映画「女優は泣かない」の企画に着手したのは約6年前です。僕がこの世界に足を踏み入れたのは、大学4年だった2006年に「フジテレビ ヤングシナリオ大賞」の最終選考に残ったことがきっかけなのですが、以来、地元・熊本県荒尾市で映画をつくりたいとずっと思っていました。実現に向け僕を奮い立たせたのは、映画「オズランド 笑顔の魔法おしえます。」(18)でした。映画の原作となった小説『オズの世界』(15)を、「これ荒尾のグリーンランドが舞台やけん、お前の監督・脚本で映画化できんとか?」と、いとこから渡され読んだら面白かった。それで知り合いのROBOTのプロデューサーに相談したら、すでにそのROBOTで映画化が決まっていて。作品の舞台で生まれ育った人間として、なんとか自分もその映画制作に参加できないかとアプローチしたのですが、叶わず。それが悔しくて、だったら自分の企画で、自分でお金を集め、地元で映画を撮ってやる!と。それが6年前、映画「女優は泣かない」の始まりです。
そこから脚本を書き、何度も書き直したりして、完成までに2年を要しました。キャスティングにも時間がかかりました。スキャンダルで仕事をなくした女優・梨枝と、うだつが上がらない若手ディレクター・咲のがけっぷち女性ふたりの話なのですが、特に梨枝役は悩みました。しばらくはなかなかいい候補に巡り会えず、時間だけが過ぎて行く日々で。そんなときに、脚本を読んで即決でやりたいと言ってくれたのが蓮佛美沙子さんでした。それで若手ディレクターには、蓮佛さんとは違うタイプの女優をと考えました。偶然観た映画「サマーフィルムにのって」(21)で、伊藤万理華さんが高校の映画部で時代劇を撮ろうと奮闘する監督役を演じていて。僕は、この高校生が成長した姿がディレクターの咲だ!と勝手に思い込み、伊藤さんにオファーしたところ、こちらもふたつ返事で受けてくださった。
梨枝の地元、つまり僕の地元である荒尾の登場人物はできるだけ九州出身の俳優でそろえたいと思いました。梨枝の同級生でタクシー運転手の“さるたく”こと猿渡拓郎役の上川周作さんは大分県出身です。僕は上川さんが所属している「大人計画」が大好きでずっと舞台を観ていて、上川さんっていい俳優だなと思っていたのでぜひにと。梨枝の元カレ役の福山翔大くんは仲良しで飲み仲間でもあるんですが、彼も福岡県出身だし、梨枝の弟役の吉田仁人くんも鹿児島県の出身です。弟役はどうしても九州出身の俳優にこだわりたくて探していたときに、「そういえば、M!ILKの吉田仁人って九州生まれじゃなかった?」ってなって、たまたま彼が所属するスターダスト制作3部の部長さんを僕が知っていたので、直接電話してオファーしたところ、すぐに動いてくださって、奇跡的にスケジュールがハマり、出演が実現しました。期待通り仁人くんはカッコいいのにちょっと野暮ったさが残っている高校生の役をとてもいいバランス感覚で演じてくれました。
ほかにも熊本出身の宮崎美子さんにも参加いただいていますし、ハマケン(浜野謙太)さんとはドラマ「面白南極料理人」(19)からのお付き合いで、ずっと仲良くしていただいて、僕の作品にはスケジュールが合えば必ず出てくれます。あと緋田康人さんとは僕の初脚本監督ドラマ「私の部下は50歳」(14)で、三倉茉奈さんとは僕の初舞台「結婚なんて、クソくらえっ!」(17)でご一緒して以来の付き合いで、梨枝の父親役には密かにファンだった升毅さんしかいないとお願いしました。とにかく僕が大好きな俳優陣に集まっていただいたといった感じです。
全財産を製作費につぎ込む。
製作費は約7000万円。ほとんど僕自身で工面しました。というのも、当初はちゃんと出資者の方がいて、クランクイン時にはお金は集まっていたんです。ところが、ようやく準備を整え2021年8月に撮影を開始したのですが、2日目にコロナ禍で中断せざるをえなくなってしまった。出資者の方は本当に僕のことを応援してくださっていただけに、さすがにもう一度出資してくださいとは言えず、「次は自分でなんとかします」と言っちゃった。言ってしまってから「どうしょう」って頭を抱えました。2012年から個人事業主で、企画・脚本・演出を手がけ、映像ディレクターとして活動していたのですが、そのときの僕にはお金集めのノウハウがなかった。最低でも5000万は必要だと思っていましたし、コロナ禍での撮影になるので費用もかさむ。いろいろ奔走したのですが、やっぱりそんなお金は集められませんでした。本当に落ち込みました。当時の僕は途方に暮れてずっと下を向いて酒を呑んでいたようです。
だけど、最悪自分が借金してでもこの映画がつくれるのならそれでいいと思いました。これで自分は終わってもいいから絶対に映画を撮る、やり切ろうという気持ちでした。コツコツ貯めていた貯金は全部つぎこみました。撮影を必ず再開させるとキャストとスタッフに告げたときからその覚悟はありました。そのぐらいの想いでなければできなかったと思います。それだけでは足りないので、銀行と公庫から融資を得るために会社・有働映像制作室も立ち上げました。それでも足りず、友人、知人、親、親戚に頭を下げお金を借りました。みんな貸してくれたんですよね。本当に、マジでありがたかったです。あとは、地元の企業さん数社から協賛いただいたり、先輩から個人的に出資をいただいたりでなんとか。だから製作費の9割程度は自分で出してる計算です。ほぼ借り入れですが(笑)。
撮影時の記憶はほとんどありません。
1度目のクランクインから1年3か月後の22年10月末に撮影を再開しました。撮影は3週間弱、荒尾を中心に熊本で2週間ちょっと、東京でも3、4日行いました。ようやくこぎつけた撮影でしたが、喜びを感じる余裕なんてまったくありませんでした。地元にはたくさん協力してもらったのですが、撮影慣れしていないので苦情も出るんです。地元だから僕のところに直接クレームが来るし、親戚や親のこともあるので知らんぷりできない。とにかく迷惑をかけてはいけないと、ずっとドキドキしていました。天気にもドキドキさせられました。でも奇跡的に1日も雨が降らなかったんです。最終日に屋外のロケが終わって、最後に家の中でチャーハンをつくるシーンの撮影があったのですが、そのときに初めて雨が降ってきました。
キャストもスタッフも全員がとにかく撮影しよう、撮り切ろうと一致団結してくれていました。コロナ禍での中断、あとがない再挑戦という緊張のなかでの撮影でしたが、この役者さんってこんな芝居するんだって思ったことが何度もありました。蓮佛さんのお芝居は昔から観させてもらってるのですが、「いまの芝居? 素なの?」みたいなことがあって。それは伊藤さんにも、上川さんにもあって、役者としてある一線のようなものを越えたなと感じる瞬間を目の前で見せてもらった。ギリギリ極限下での撮影でしたが、監督冥利に尽きる、とても幸せな瞬間でした。
ドラマ「池袋ウエストゲートパーク」でクドカンさんを知る。
高校卒業後、大学に入学するために18歳で上京しました。僕は地元が大好きだったので、外に出るつもりはありませんでした。でも大学入試センター試験でミスって国立大学を受けられなくなってしまった。地元の私大に行くぐらいなら東京に行きたいと親に相談したら、名の通った大学ならと言われ、なんとか早稲田大学に滑り込みました。だから、強い憧れや思いがあったわけではなく、ある種、しかたなく東京に出てきたような感じで、3連休があったら地元に帰っていたぐらいでした。大学4年生のときたまたま本屋で雑誌『月刊シナリオ』でフジテレビ ヤングシナリオ大賞の募集告知を見つけて、友だちもいなくてひまだったし、参考書を2冊買って小学校のときの思い出をベースに膨らませ日記の延長みたいな感じで脚本を書いて応募しました。それが最終選考に残り、それからプロット会議に呼ばれるようになったのがこの仕事を始めたきっかけです。
それまで文章なんて書いたことなかったのですが、子供のころからよくドラマは観ていました。僕は中学1年生から帰宅部で、当時は家に帰って再放送のドラマを観ることが唯一の楽しみでした。高校生の時にめちゃくちゃ好きでハマったのが「池袋ウエストゲートパーク」です。それでクドカン(宮藤官九郎)さんの名前を知りました。そこから脚本家に興味を持ち、脚本家で作品を選んだりするようになりました。ただ当時は、脚本を書こうなんて思ったことも、考えたこともありませんでした。いまもクドカンさんの作品は大好きでずっと観ています。“さるたく”役の上川さんはクドカンさんと同じ「大人計画」所属ですが、クドカンさんご本人にはまだお会いしたことはありません。ドラマの撮影で同じ「大人計画」の近藤公園さんとご一緒した時に、「クドカンさんが好きなんだけど、さすがに一緒に作品つくるのは難しいから、お会いできる機会もたぶんないっすね」なんて話したら、「クドカンさん役者やってんだから、脚本家じゃなく役者でオファーすれば?」って。いやいやいやって(笑)。尊敬なのか、畏怖なのかわからないけれど、まだちょっと僕からクドカンさんにオファーする勇気はありません。いつかチャンスがあればと思ってはいるのですが、なかなか。
どんなに仕事でボロボロでも脚本を書き続けた。
大学卒業後は、コピーライターの仲畑貴志さんのCM制作会社「仲畑広告映像所(現ドラゴン東京)」に入りました。制作部として入社したので毎日本当に過酷でした。それでも5年半続けたのは、CMの仕事も好きでしたし、なにより仲畑さんのことを尊敬していたからだと思います。だから、この映画のためにつくった「有働映像制作室」という社名も、仲畑さんへのオマージュで命名したんです。昭和っぽいと言われたりもしますが(笑)。日夜仕事に追われながらも、ずっと脚本を書いていました。深夜12時に帰宅して、明日は3時起きってときも、寝ないで脚本を書いていた。寝てないのはキツいけど、俺は昨日脚本1本書いたからこの辛い仕事も頑張れる、そんな感じでした。世に出るとか出ないとかそんなこと関係なく、とにかくがむしゃらに何十本も、忙しければ忙しいほど書いていました。その素養があったから、いまにつながっているのかもしれません。裏で続けていた意地の努力みたいなものが、いまの僕のベースになっているんだと思います。実はこのあいだ引っ越しのときに、20代前半に書いた脚本を発見したんです。読んだらすごく面白かった。荒削りだけどいまの僕にはない発想というか。おそらくいまの僕の経験値をもって撮れば、きっといい作品にまとめることができると思います。でも使いません。当時の自分に負けたくないという気持ちがまだあるんです。だから昔の脚本は封印しています。本当にダメになったら使おうかなっと(笑)。
舞台挨拶は感無量でした。
僕にとって映画を撮ることは、夢じゃなくて意地でした。夢をかなえることは難しいかもしれない。でも意地なら通すことができた。演出家としても脚本家としても、僕よりも優秀な人はたくさんいたはずなのに、みんなやめてしまうんですよね。日本の制作現場にはやりがい搾取が横行していて、「好きだからやっているんでしょ」っていまだに言われる。でもそれは間違っている。好きで入った世界をどうすればやめずに続けられるのか。僕は、「才能」「努力」「運」のなかのふたつあればいいと思っています。必要なのは、自分に何があって何がないのかを見極めることです。僕の場合は、初めて書いた脚本がヤングシナリオ大賞の最終選考まで残ったってことで少しだけ才能はあったんだと思います。でも運はないので努力しました。運を引き寄せるだけの努力はしてきたつもりです。
ただ、頑張ったからといって報われる世界じゃないというのも事実です。映画「女優は泣かない」も、これだけリスクを負って努力して頑張ってつくりましたって言ったって、映画が面白くなかったら、結果が伴わなければ、「有働さん、自主製作映画つくったんだね」で終わっちゃう、シビアな世界なわけです。だから、少しでも多くのみなさんに映画の存在を知っていただきたいと、遅ればせながらクラウドファンディングもこれから予定していますし、ただいま上映劇場で販売中のTシャツもつくり、小説も書き、映画のためならなんだってやろうと画策しています。
(画像左から:Tシャツ、小説<小学館刊>)
映画「女優は泣かない」は、11月3日からDenkikan(熊本市)とセントラルシネマ大牟田(福岡県大牟田市)で先行公開されました。感無量すぎて、舞台挨拶でもあまり話せませんでした。特にセントラルシネマ大牟田は荒尾から近いので、親戚や友人が来てくれていたし、会うの20年ぶりなんて友だちがいきなり会場にいたり。知った顔を見つけちゃうと感極まっちゃうからまともにお客さんの顔も見られず、ずっとそわそわ挙動不審で、一緒に登壇してくれた蓮佛さんと宮崎美子さんにずいぶんいじられました。
好きなことをやめない方法を見つけてほしい。
梨枝の「私は女優をやめられない。いや、やめたくない。これしかできないし、この仕事が好きだから。絶対にあきらめないし、死んでもすがりつく」というセリフはそのまま僕の思いです。僕は映像業界にしがみついてきましたが、いまはiPhoneでも映画が撮れて世界的な評価を得ることもある。映像制作を仕事としてはやめても、つくることはやめなくていい時代になっている。だから、好きなことをやめない方法を見つけてください。映画をつくるときも、つくってからもがけっぷちの僕が言うのはおこがましいかもですが、でも僕は好きなことをやめなかったから、いまここにいる。僕は17年かかりましたが、あきらめなければいつか何かチャンスは巡ってくる。みんな大抵2、3年でやめてしまうけど、その先4年目にチャンスがあったかもしれない。そういう同業者を僕はたくさん見てきました。だから、もう少し続けていればよかったのに、やめない方法あったよねって思いが強い。僕が意地でつくった映画「女優は泣かない」は、大好きな故郷の原風景と“好きなことをあきらめないでほしい”というエールをたくさんつめこんだ作品です。
1984年熊本県荒尾市生まれ。早稲田大学在学中に第18回「フジテレビヤングシナリオ大賞」の最終選考に入選する。2007年CM制作会社「仲畑広告映像所(現ドラゴン東京)」に入社。12年11月に独立し、CM、テレビドラマ、アニメの企画・脚本・監督として活動。14年NHKの企画バトル番組「青山ワンセグ開発」にて企画・脚本・監督を担当したショートドラマ「私の部下は50歳」が当時の番組史上最高得票数を獲得し優勝、全10話のレギュラー放送権を獲得する。16年にNHK BSプレミアム「わたしのウチには、なんにもない」で連続ドラマ初総合監督。17年には渋谷カルチャーカルチャーにて初の舞台「結婚なんて、クソくらえっ!」で企画・脚本・演出を手がける。ドラマ「面白南極料理人」(テレビ大阪・BSテレ東系/18)で第56回ギャラクシー賞テレビ部門の奨励賞を受賞。23年12月1日より初長編映画「女優は泣かない」が全国順次公開中。主な作品として、ドラマに、「逆に聞こう!なぜ唄わない?」(企画・脚本・監督/ NHKEテレ/15)、「働かざる者たち」(脚本・監督/テレビ東京/20)、「おしゃれの答えがわからない」(原作・脚本・監督/日本テレビ/21)、「それでも結婚したいと、ヤツらが言った」(脚本・演出/テレビ東京/23)、舞台に、LINELIVE生配信「デジタル本多劇場~近づきたくても近づけない人々の悲喜交々」(企画・脚本・総合演出/20)ほか。
スキャンダルで仕事を失った女優・梨枝(蓮佛美沙子)は、10年ぶりに帰ってきた故郷の熊本で、ドラマ志望の若手ディレクター・咲(伊藤万理華)と“女優が生まれ故郷の熊本で素顔を見せる”密着ドキュメンタリーに渋々挑む。女優復帰と希望部署への異動をかけ、まったくソリの合わないふたりの前途多難な撮影がスタートする。家族との確執、迷走する撮影と自身の将来。がけっぷち女優と若手ディレクターが最後に見つけた自分たちの居場所とは。
出演:蓮佛美沙子、伊藤万理華 、上川周作、三倉茉奈、吉田仁人、 福山翔大、緋田康人、浜野謙太、宮崎美子、升毅
監督・脚本・編集:有働佳史
製作:谷義正、エグゼクティブプロデューサー:舛田淳、プロデューサー:木滝和幸、福田済、音楽:吉田ゐさお、撮影監督:長野泰隆、照明:児玉淳、録音:岡正剛、美術:鳴滝良弘、音響効果:田中俊、カラリスト:関谷和久、 スタイリスト:中野雅世、ヘアメイク:岡本侑子、助監督:金子功、伊野部陽平、ラインプロデューサー:相羽浩行、スチール:山崎伸康、 宣伝プロデューサー:平井万里子、パブリシスト:大久保渉、宣伝美術:川久保政幸、制作プロダクション:有働映像制作室、制作協力・配給:マグネタイズ、配給協力:LUDIQUE
Ⓒ2023「女優は泣かない」製作委員会
12月1日(金)よりヒューマントラストシネマ渋谷ほか全国順次公開中
インタビュー・テキスト:永瀬由佳