――世界は多くの作品で満ちている。それを生み出すあまたのつくり手たち。そのなかで、独自のエネルギーを放つ人たちがいる。ある人は世界的な評価を得、ある人は新たな挑戦に向かい、またある人は心血注いだ作品を、いままさに世に放とうとしている。なぜつくることをあきらめなかったのか、現場に立ち続けるには何か必要なのか、どうすれば一歩でも次のステージに進むことができるのか。CREATIVE VILLAGEでは、最前線を走るトップクリエイターたちに、作品、つくり手としての原点、そしてこれからを問う。――

2023年2月4日、映画監督・外山文治の最新作「茶飲友達」が公開された。東京・渋谷のユーロスペース1館からのスタートだったが、その1か月後、公開館は50館を超え、さらに全国で拡大し続けている。何がそこまで観客を惹きつけるのか。外山監督は、「いま」という時代に生きる人の孤独をつきつける。その救いようのない痛みが心に空いた穴を包むように、ひとりの監督が俳優たちと懸命につくりあげた映画が、だれかの行く末を照らすこともある。外山監督は言う。あきらめないでほしい、生きることを、世の中とつながることを、自分自身を。

外山文治(そとやま・ぶんじ)
1980年福岡県生まれ宮崎県育ち。幼少期より物語を書く。高校時代から映画制作を開始。日本映画学校(現・日本映画大学)演出ゼミ卒業。脚本「星屑夜曲」が伊参スタジオ映画祭シナリオ大賞2005で大賞を受賞、翌年映画化しSKIPシティ国際Dシネマ映画祭2007短編部門で奨励賞・川口市民賞を受賞する。老老介護の現実を見つめた映画「此の岸のこと」(10)がモナコ国際映画祭2011短編部門最優秀作品賞をはじめ5冠に輝く。映画「燦燦-さんさん-」のプロットが第6回シネマプロットコンペティションでグランプリを獲得し自身の脚本・監督で映画化、2013年長編監督デビューを果たす。17年に製作・監督・脚本・宣伝・配給を自身で手がける「映画監督外山文治短編作品集」を発表。20年に豊原功補、小泉今日子らと新世界合同会社を立ち上げ製作した「ソワレ」(20)は第25回釜山国際映画祭に正式出品された。23年1月に映画監督外山文治短編作品集vol.2がイベント上映される。主な監督・脚本作品に、短編映画「星屑夜曲」(06)、「わさび」「春なれや」(17)、「海辺の途中」(19)、「ぼくはぜろにみたない」(21)、「海辺のあしあと」(22)ほか。
 

自分から企画書を持って売り込みに行きました

いま、大変な反響をいただいています。映画「茶飲友達」はENBUゼミナールのシネマプロジェクト第10弾としてつくられた作品で、ささやかな規模の映画ですから、東京と主要都市など10館ぐらいで公開できれば御の字だと思っていました。この拡大は本当に予想外です。実は4年前に一度ENBUゼミナールからオファーをいただいたのですが、そのときはすでに手がけている作品があったのでお断りをしてしまったんです。でもそれからしばらくして、コロナで映画業界全体がストップしてしまい、私の映画監督としての活動も、役者たちが世に出ていくチャンスも奪われてしまった。いまこそ何か団結してできないかと考え、自分からENBUゼミナールに企画書を持って売り込みに行きました。そのとき持ち込んだ5本の企画の中の1本が本作「茶飲友達」です。現在の反響の大きな要因としては、高齢者の性の問題をここまで明らかにした作品がこれまでなかったこと、そして若者の閉塞感や孤独が描かれていることの両軸がみなさんの好奇心とマッチングしたのだと思います。

映画化が決まり、2013年に起きた高齢者向け売春クラブの事件をモチーフに脚本を書きはじめました。若者たちがシニアの寂しさにつけ込みたぶらかすようで、しかし実は若者たちのほうが明日を見失ってしまっているという構成で、現代の諸問題を浮き彫りにしたいと考えました。これまで私は、高齢者が抱える先の見えない不安、孤独といったものにスポットを当てて作品を発表してきましたが、この10年で、若者の孤独が顕著になり世の中全体が生き辛くなった。本作に登場するどの世代も幸せそうに見えないし、その原因を解明することもできない。世の中が閉塞感で押しつぶされそうな「いま」というタイミングで映画が公開できたことも、この反響につながっていると思います。

映画には現実社会の問題への対処法が描かれているわけではありません。ただお客さんにとって、自分と同じようにどうしようもない孤独を抱えている人間がこんなにもたくさんいるのだということは、ひとつのメッセージになっていると思います。みんな心に空いた穴を埋めるために触れ合いを求め、本作ではファミリーと呼んでいますが、そういった共同体を構築しようと努力したり、うまくいかなくてより孤独になったり。寂しさはもう現代病ですよね。昔からそういったものはありましたけど、もはやごまかし切れなくなっているのが、「いま」なのだと思います。

こんなにも世代によって受け止め方が違うのか

人はひとりじゃない ——— 私はそんなことを軽やかに言う優しい作家ではありません。人はひとりだ、それは大前提として、でも、ひとりではないかもしれない。そこに望みを託して探し続けることが大事なのではないか。映画「茶飲友達」ではそこを提示したかった。世の中に一石を投じたかったんです。もちろん高齢者の性問題を扱うことで、非難を受ける可能性も十分あったし、自分が石を投げられる覚悟もありました。ところが返ってきたのは石ではなく、予想をはるかに超える反響と共感でした。本作は若者にとっては社会派ドラマなのですが、シニア世代にはヒューマンドラマでありラブストーリーなんです。シニアの方たちにとって、映画に描かれていることは日常であり、等身大の悩みだからこそ、「こういう生き甲斐の見つけ方もあるのか」とか、「スキンシップって大事よね」といった自分目線の感想で、こんなにも世代によって受け止め方が違うのかと、評価の角度、物差しの違いを感じています。

私は10年以上もシニアに焦点を当てた映画を撮ってきて常々感じているのですが、高齢化社会の現実を悲惨だというのは主に若者たちの意見です。可哀想だとか、痛ましいとか言っているのは若い世代で、当のご本人たちはそれでもタフで前向きだし、本作のワークショップオーディションでも「60歳以上大募集!」と告知したところ予想を超える応募をいただき、しかもみなさんメチャクチャお元気です。老老介護を描いた短編映画「此の岸のこと」(10)でも、若者たちは「見ていられない」「辛い」といった悲痛な感想を持つのですが、シニアの方たちは「こんなにケアしていただいてうらやましい」とか、「素敵な愛情を見たわ」っておっしゃるんですね。まったく評価軸が違う。その経験があったので、おそらく「茶飲友達」もシニアのみなさんが観て、シンプルに明日がないなんて悲観的には思わないだろうという気はしていました。そこだけは予想通りでした。「いま」という時代が抱える問題に正面から向き合っていますので、あらゆる年代に刺さるものになっているはすです。公開館も広がり全国のみなさんに観ていただけるチャンスがあると思います。どこの街に住んでいても、寂しいとか、必要とされたいという思いはだれしもきっとお持ちでしょうからみなさんの感想が楽しみです。私もできるだけ機会を見つけて上映の場にうかがいたいと思っています。

映画の入り口から出口まですべてを勉強しようと思いました

この業界を目指してからは一貫してオリジナルの脚本で映画をつくりたいという考えで、自分から企画を売り込む営業努力を続けています。先ほども言いましたが、「茶飲友達」もそうやって始まった作品です。今回は配給と宣伝にプロの方に入っていただいていますが、かつては自分で配給と宣伝もやっていたので、お客様に届けることの大事さと大変さもわかっています。だから当然プロモーションにも参加しますし、公開館が増えるように営業もやります。そういうのは「監督の領域じゃない」では済まされない。自分から売り込んだ以上はだれよりも汗をかかなければと思っていますし、今回はプロデューサーでもあるので、みなさんに知恵を借りながら、すべてに最後まで責任を持ち、やれる限りことを考え率先して動いています。

33歳のときに「燦燦−さんさん‒」で長編監督デビューしたのですが、その後オファーされる仕事が思っていたものと違ったり、自分が撮りたい企画にはリクエストなんて来ないし。映画監督ってキャスティングされるものなんですよね。ということは、監督をやれるかどうかは他人が決めるわけです。必死で追いかけている夢が叶うかどうかを他人が決めるのかと恐怖を感じて、これではダメだと思いました。デビューまではレール引いてもらったけれど、これからは、もし仮にだれにもオファーされなくても映画を撮っていけるだけの力を身につけなければならないと。それで30代のうちに、映画の入り口から出口まですべてを勉強しようと思いました。企画、製作費集め、宣伝・配給の仕組み、DVD製作・販売、配信、印税、契約書等々にいたるまで全部自分できるようになる。そうすれば、たったひとりになったとしても、映画を撮り続けることができる。それで2017年から、製作・監督・脚本・宣伝・配給をすべてひとりで手がけ短編をつくりはじめました。それは私という作家がやりたいことをかたちにして見せる、映画監督としての決意表明でした。

挫折の連続……何もかもうまくいかなかった

「燦燦−さんさん‒」で長編監督デビューするまでアルバイトをしていました。映像業界とはまったく関係ない業種だったのですが、デビューしてからも週に1回でも働かせてもらいたいと思っていましたが、「保険を持たないで、ちゃんと勝負したほうがいい」と言われてフリーになりました。若い頃はテレビの現場で助監督をしていたこともあるのですが、向いてないんです。人間の特性の問題だと思います。不器用なのでガムテープがうまくちぎれなくて(笑)。もう入り口でダメでした。使いものにならないので現場にも入れない、でも映画が撮りたい、だったら脚本を書こうと思いました。とにかく当時は何もかもうまくいきませんでした。挫折の連続でした。こんなはずじゃなかったとか、本当はもっとできるのにって、自己評価と周りの評価が一致しないからより孤独になっていきました。

それで24歳の頃、映画の神様のように思っていたウッディ・アレンに会いにニューヨークに行ったんですね。まるで思いつきの無計画なものでしたが、幸運にも会えたんですよ。ウッディ・アレンって本当にいるんだなって思いました(笑)。初めて海外に行って本場の映画文化に触れたことで、気持ちが楽になりましたし、日本で認められるかどうかだけに意識が向いていた自分の小ささにも気づけました。それからすぐに、「星屑夜曲」という脚本で賞をいただけたので、少しだけ流れは変わるのですが、でもいまも常に立ち止まりながら活動しています。

DVD1本持って、蜷川幸雄さんに会いにいった

活動がうまくいかなくて一番追い込まれたのは29歳のときですね。もはや辞めどきすら見失ってしまっていました。自主映画で「此の岸のこと」を撮って、これでダメだったら本当に終わりだなと思いました。ただ、映画監督としてやっていけるのかどうか、その判断をだれがするのかということが肝心だと思いました。それで蜷川幸雄さんに会いにいったんです。「此の岸のこと」にさいたまゴールド・シアター(蜷川幸雄氏が2006年に旗揚げした55歳以上限定の演劇集団)の役者が出ていたので、観てもらえるかもしれないと思ったんです。日本一の演出家にダメだって言われたらあきらめもつくかもしれないと、30歳のときにDVD1枚持って稽古場にお邪魔しました。でも5時間渡せませんでした。スタッフの方がタイミングを見はからってくれていたのですが、5時間経ってもそのタイミングが来ない。それで、「ちょっと渡してきます」って30メートルぐらい先にいらっしゃった蜷川さんのところまで自分で行って目の前に立って「観てください」と伝えました。そのとき頭の中はアルバイトの給料明細のことばかりを考えていました。人生を変えられるのか、いままでと同じ時給で生きていくのか、ここで決まると覚悟を決めたんですね。緊張とかではなく、生活のことばかり考えていました。

翌日、映画に出演してくれた劇団員に聞いたら「絶賛してた!」って。その日のうちに観てくださったようで、「この映画知っているか? こういう映画に出ている俳優に嫉妬したほうがいいぞ」みたいなことを言ってくださったそうで、慌てて会いにいったらすごくほめてくださった。それが自信になりました。心の武器を得た感じでした。観てほしいと思う人には自分からDVDを持って会いにいきます。小泉今日子さんには舞台を観たあとにDVDをお渡しして、結果的にそれが映画「ソワレ」(20)につながりました。もちろん、特に若い頃はむげにあしらわれたこともたくさんありましたけど、蜷川さんであったり、小泉さんもそうですが、第一線で活躍されている方は人間的にも素敵な方が多くて、作品にきちんと向き合っていただけてありがたかったですし、そういう方々にずいぶん助けられてきていると思います。次回作も少し動き出しているのですが、自分から売り込んでいますし、決して楽はせず自分から動くというスタイルを続けていくつもりです。

「映画を撮ること」は「生きること」そのもの

映画を仕事だと思ったことはありません。もともと私は小説家志望で、ものを生み出す人間になることを期待されて「文治」と命名されましたし、祖父もデビューこそできませんでしたがずっと小説を書いていましたので、ものをつくるということは私にとって日常でした。だから、映画を撮るということは生き方そのもの、私にとって生きていくこととイコールなのだと思います。いまは生活費のために業界以外のアルバイトをすることはなくなりましたが、いつでもアルバイト生活に戻っていいと思っています。映画監督は路頭に迷う可能性が十分あるわけですし、いつそうなったって文句もありません。そもそも私は路頭に迷ってきた人間ですから。29歳のときはネットカフェ難民をしていましたし、それでも映画をあきらめられなかった。映画にしがみついて生きていました。そんな人間が、たまたまいま映画を撮らせてもらっているだけにすぎない。現場で一番偉いのは監督というのは錯覚で、みこしに乗らせてもらっているだけで、作品のために集まってくれたみなさんに感謝でいっぱいですし、それぞれの持ち場で切磋琢磨していただいて、本当にありがたいと思っています。

私は助監督の駆け出しのときに挫折して途方に暮れていたときのメンタリティのままいまもいるので、現場で怒るという概念がもはや自分にはない。実際、みなさん私より非常に優秀であり、頼もしく誇らしいです。いまもし映画を撮ること以外に何か好きなことをしていいと言われたら、監督のイ・チャンドンに会いにいきたいです。ダルデンヌ兄弟、バズ・ラーマンにも会ってみたい。自分がどうしようもなく映画に憧れていた時期のモチベーションみたいなものに触れたい。ずっとずっと映画監督になりたかったんです。ですからデビュー映画「燦燦 -さんさん-」の舞台挨拶で壇上に上がったときの戸惑いはすごいものでした。どうしょう、夢が叶ってしまった。いくらか苦労はしたけれど、映画監督になれた。ひたすらそれだけに向けて必死に走ってきたゴールを見失ってしまった焦りみたいなものが強烈にありました。

自分のことよりも、役者たちの未来を思って撮った初めての作品です

私の孤独、心の穴を埋めてくれるものは、やはり映画をつくることです。脚本を書いて、現場に立って、編集してといったことを繰り返していると、自分の孤独が作品として昇華されていくように感じて、それが私の心の特効薬になっている気がします。前作「ソワレ」のときは、自分はこういう人間だと、外山文治という映画作家がいるんだということを一生懸命伝えたくて、本当にガムシャラでした。でも今回のシネマプロジェクトには、これから世に出る役者たちをアシストするという役割もあるんです。だから私自身もこれまでとは頑張るためのガソリンがまったく違いました。

ある映画祭の審査員をやったときに、受賞者がとても喜んでいてみんなで記念写真を撮っていて、自分も一緒に紛れたかったのですが、別の審査員の監督に「きみは、もうそっちじゃないから」と言われて、ハッとさせられるという。世代交代なのか、背負うものが違ってきているのか、少し寂しい気もしますが、「茶飲友達」は、自分のことよりも、役者たちの未来を思って撮った映画です。そういう気持ちで撮った初めての作品です。自分にとって「ソワレ」がそうであったように、「茶飲友達」が役者たちの名刺がわりになるような作品になってほしいと本気で思っています。

映画『茶飲友達』は、順次上映館を拡大しながら公開中。

映画『茶飲友達』
妻に先立たれ孤独に暮らす時岡茂雄(渡辺 哲)が目にした新聞の三行広告「茶飲友達、募集」。だがそれは高齢者専門の売春クラブ「茶飲友達(ティー・フレンド)」への入り口だった。代表の佐々木マナ(岡本 玲)は共に運営する若者たちと所属する65歳以上のコールガール「ティー・ガールズ」をファミリーと呼び、孤独や寂しさを抱える者同士、支え合い生きていた。そんなある日、高齢者施設に入所する老人から1本の電話が入る。

Ⓒ2022茶飲友達フィルムパートナーズ

Ⓒ2022茶飲友達フィルムパートナーズ

Ⓒ2022茶飲友達フィルムパートナーズ

監督・脚本:外山文治
プロデューサー:市橋浩治・外山文治、共同プロデューサー:宇津井武紀、アソシエイトプロデューサー:梅田千景・大久保孝一・黒川和則・児玉健太郎、撮影:野口健司(JSC)、録音:宋晋瑞、美術:中村哲太郎、装飾:前田巴那子、スタイリスト:岡澤喜子、衣裳:大場千夏、ヘアメイク:荒川瑠美、ヘアメイク監修:岡澤愛子、制作:柿本浩樹、編集:小原聡子、音響効果:字引康太、ポストプロダクション:レスパスビジョン、脚本協力:鈴木拓真、スチール:松井綾音、音楽:朝岡さやか
配給・宣伝:EACHTIME、製作:ENBUゼミナール
Ⓒ2022茶飲友達フィルムパートナーズ
PG12

映画「茶飲友達」がつくられたENBUゼミナールのシネマプロジェクト:監督とワークショップオーディションで選ばれた俳優が一緒になって映画を製作し、国内外の映画祭への出品、劇場公開等、完成した映画を世に送り出すことを目指す。第7弾で製作された映画「カメラを止めるな!」でも知られる。

インタビュー・テキスト:永瀬由佳