ゲームビジネスにおけるマーケティングのミッションは、“ゲームとユーザー”、この幸せな出会いのきっかけを可能な限り多く生み出すことにあります。ゲームを作るのはクリエイターとエンジニア、売るのはマーケターの仕事。ゲーム業界の誰にとっても当然のことで、今更意識することすらないかもしれません。しかし、本当にそうなのでしょうか。
売上が伸び悩むのはゲームが面白くなかったからなのか、それともマーケティングが悪いのか。残念ながら、この“犯人捜し”が有意義な議論に発展したことはありません。今、ゲームビジネスのマーケティングに必要なものは何か。儲けの理論と思われがちなマーケティングを新しい側面から照らします。
ゲームとマーケティング
広告を見て何となくダウンロードしたゲームが意外に楽しくて、すっかり夢中になってしまうということもあれば、待ちに待った話題の最新作なのに全然面白くなかったとガッカリさせられることもあります。どちらも、ゲームファンにとっては“あるある”体験ではないでしょうか。
プレイしてみて、予想を遙かに上回るような素晴らしい出来映えのゲームは「神ゲー」と称えられる一方、イマイチなゲームは「クソゲー」と言われたりします。ゲームファンの間で評判の芳しくない「クソゲー」は、確かにゲームバランスが不均衡だったり、見た目が粗かったりして、ゲーム全体を見るとどうにも歪(いびつ)な箇所が悪目立ちしてしまっているように思います。
しかし、そのイマイチなゲームを深く愛好する人々が少なからずいるというのも、また事実です。彼らは不出来なところを含めて、そのゲームを心から愛しており、むしろイマイチであるが故に熱心に応援を続けます。その様子は、まるで「神ゲー」に出会えたかのような喜びと愛情に満ち溢れていて、まさに“熱狂”と言えるでしょう。
そして、興味深いのは、ちょっとした不具合ですら、ゲームの面白さを開拓するようなポテンシャルを秘めているという点です。古くは『スペースインベーダー』でバグを利用した攻略法「名古屋撃ち」が発明されたように、今では格闘ゲームで基礎的なテクニックとされている「キャンセル」も元々は『ストリートファイターII』のバグが始まりだったと言われています。
さて、こうして振り返ってみると、ゲームの面白さとは一体何なのか、いよいよわからなくなってしまいます。ある一面では問題があるように見えても、別の面ではそれが面白さの根幹をなしている場合もあるからです。つまり、ある人の言う「クソゲー」とは、別の人にとっての「神ゲー」である可能性が常に存在し、その逆もまた然りということになります。ということは、ゲームの評価の分かれ目は、ゲームそのものの性質(本質)よりも、「このゲームは面白い(あるいはイマイチ)」という確信に至るまでの過程にあるのではないでしょうか。
ゲームビジネスにおいて、マーケティングとは単にゲームを大勢に売り込むことではありません。私が思うマーケティングとは、ユーザーと作り手の感情、考え方、ひいては人生を出会わせるものであり、収益とゲーム性を両立させ、市場(時には社会全体)をアップデートし続ける活動を指します。
したがって、「クソゲー」はゲーム自体に何か欠落があるからダメなのではなく、マーケティングに不具合があったために生じた現象だとも言えるでしょう。翻せば、どんなゲームも誰かの人生観、時代観を変える力を秘めているのであり、マーケティングによって、ユーザーや市場を“良い”方向にアップデートできたものが「神ゲー」と呼ばれている、ということになります。(もちろん、何をもって“良い”とするのかはもっと議論が必要なのですが。)
かつてマーケティングは社会と地続きであった
ゲーム業界で最も有名なマーケターは高橋名人(高橋 利幸さん)でしょう。脅威の連打テクニック「16連射」で1980年代に大変な人気者となった彼ですが、本当はゲームがあまり得意ではなく、デモンストレーションするためだけにこっそり何ヶ月も練習していたという逸話も今ではよく知られています。高橋名人が四苦八苦しながらプレイスキルを磨いたのはゲームの面白さを伝えるためであり、子供達の憧れに応えようといつもプレッシャーを感じていたのだそうです。
さらに、「ゲームは1日1時間」という有名な標語を作ったのも高橋名人でした。このフレーズは当時のゲーム業界人の間でずいぶん物議を醸したそうですが、結果的にはゲームの社会的評価を高め、一時の流行ではなく文化として広く浸透していくきっかけにもなりました。つまり、ゲームと、ゲームで遊ぶこと、そしてマーケティングは社会に向かって常に地続きだったのです。
しかし、その構図は今、ほとんど崩れ去ろうとしています。6月7日に発売された批評誌「ゲンロン8 ゲームの時代」で、思想家の東浩紀さんはソーシャルゲーム(運営型のモバイルゲームアプリ)の運営についてこんなふうに言っていました。
“ソシャゲでゲームをしているのは、じつは運営者なのではないかと思えてくる。ちょっと数値をいじると、翌日の収入がてきめんに上がったり下がったりする。そうやって微調整して最適解を求めていく。やってることはゲームそのものですね”
この発言はさやわかさん、黒瀬陽平さんとの鼎談の中で出たものです。話の内容は界隈でも賛否の分かれるところでしたが、かといって誰がこの発言を自信満々に否定できるでしょうか。真面目に仕事をしているようでありながら、自席でディスプレイに釘付けになってKPIの上下で一喜一憂する姿はゲームに没頭するヘビーゲーマーにちょうど重なります。
もちろん、ゲームは事業ですから数字を軽視することはできません。しかし、数字には魔力があります。数字を追跡していけば、いつか普遍的で法則的な本質にたどり着けるような気がしてきてしまうものなのです。実際、共通点や法則らしきものを見つけると、ビジネスの面倒事をすっかり整理できてしまったかのような気持ちになり、実に達成感と優越感に満たされます。けれども、それは一人で悦に入っているだけで、その気持ちが他のクリエイターやユーザーに接続することはまずないのです。
分業から分断へ
ゲームのマーケティングが単なるマネーゲームに堕したのは、ゲームビジネスの巨大化とそれに伴う業務の細分化が原因のひとつでしょう。分業によって高度な専門技術を獲得したものの、各々が自分の繭の中だけで仕事をするようになり、なかなか出てこなくなってしまったのです。クリエイターはゲームを作りっぱなしにし、一方でマーケターはマーケティングにしか興味がない。これは分業が招いた分断とも言えるかもしれません。
分業が極限まで進行すると、自社のプロダクトなのに誰も“我が子”のようには受け止められなくなります。全く関わっていないわけではないけれど、どこか他人事なのです。その意味で、ゲームへのまなざしはむしろユーザーのそれに近くなるのかもしれません。それを「ユーザー目線」とか「ユーザーのため」とか言う人もいます。
しかし、本当はユーザーという群衆の中に自分を埋没させて、「自分は一人じゃない」と安心しているに過ぎないのではないでしょうか。そうではなく、クリエイターもマーケターも、時にユーザーから自分自身を引き剥がさなくてはいけない。なぜなら、そうしないことには、目からうろこが落ちるような、独創的でアクロバティックな接続経路は見つけ出せないからです。
本当はプランナーも、ディレクターも、プロデューサーも、マーケターも皆、「自分は一人じゃない、自分はユーザーの側に立っている」と思いたいのです。気持ちはわかりますが、そのせいで施策はどんどん内向きになり、やがては内輪ウケで済まされるようになってしまいます。運営業務の内情を暴露したり、「これからも課金をよろしくね!」と言わんばかりに商業的な成功をユーザーにひけらかしたりするゲームタイトルを、私はいくつか知っています。当事者同士はそれで盛り上がるのかもしれませんが、端から見ればどうにも露悪的ですし、正直ただ“寒い”だけです。
わからないことだらけ、だから知りたい
結局、ゲーム作りにもマーケティングにも攻略法はないのです。本質もなければ、法則もないし、ましてや勝ちパターンなんてゲームの中だけの話です。ゲームビジネスはわからないことだらけです。でも、実は私はそれほど悲観的ではありません。というのも、わからないことが沢山ある、ということがわかったのは大きな進歩だと思うからです。そして、身の回りのわからないことは、自分から知りたい、理解したいという気持ちが湧き起こってきます。そうなればもはや、仕事はユーザーのニーズを満たすためでも、上司に言われてやらされるものでもなく、自分が知るための、自分の責任においてやりとおしたいテーマになるはずです。
そして、自分のテーマがどこまで続いていくのかを知りたいし、できれば社会に“良い”かたちで繋がっていてほしいと自然に思うものではないでしょうか。この連載ではこれからもゲームのマーケティングについてあれこれと書いていく予定で、きっとそれはゲームと社会が繋がっていく物語になるだろうと思っています。どうぞよろしくお願いします。